フレデリック・ネフの別の本を見始める。『事物の諸属性』(Frédéric Nef, Les propriétés des choses: Expérience et logique (Problèmes & Controverses), J, Vrin, 2006)というもので、これは前の『なにがしかの対象』の続きをなしている模様。まだ冒頭部分を見てみただけだが、こちらは哲学史的な話はあまりなく、むしろ分析哲学プロパーな問題として、マイノング的な「対象的なもの」(objective)の存在論を、トロープ(個別化された諸属性のこと)を出発点(?)として構築しようという試みのようだ。トロープを出してくるとなると、対象がそれらトロープ(の束?)から構成されているといった推論が成り立ち、一元論的な存在論(つまりトロープスオンリーのような)との親和性が高くなる。けれどもそうなると、二元論的な存在論(従来型の、対象そのものと属性を分けて考える考え方)の側や、あるいはそもそもトロープの考え方に懐疑的な筋からの反論が予想される。こうして、ネフが立ち上げようとする「対象的なもの」の存在論は、それらの反論に丁寧に応えていかなくてはならなくなる。いきおい、同書はそうした反論の列挙の書という感じすらしてくる。
トロープを取り込んで前面に出してくる利点もいろいろあって、たとえばトロープが個別化された(instancié)属性だということから、抽象化した普遍的な属性なるものは単なるクラスでしかないと捉える(唯名論的に)ことができ、オッカムの剃刀よろしく、議論が簡素化されうる。そうした普遍的属性の実在をそもそも考える必要がなくなるというわけだ。また、対象がないところに(なぜならそれは構築されるものだからだ)属性だけがあるといったパラドクス(不思議な国のアリスに出てくる笑う猫のように、猫が存在しなくなってもその笑いが存続する(subsister)といった状況)が問題になったりしても、マイノング的な「実在」(existence)と「存続」(subsistence)との違いから議論することができる。実体としてありえないもの(矛盾形容詞が付いた名詞など)についての様相論的な議論も容易になるという寸法だ。ネフはこうした対応を慎重に行っているが、個人的に、トロープ中心の存在論にはどこかしっくりこないところというか、微妙な違和感・ずれの感覚のようなものがある気もしないでもない(?)。そのあたりの感覚の正体を突き止めることを目標に、さしあたりは読み進めることになりそうだ。