仏ヴラン社から出ている学会誌『カイエ・フィロゾフィック』2017年第4四半期No.151(Aperçus de la pensée stoicienne (Cahiers Philosophiques), J. Vrin, 2018)を見てみた。特集が「ストア思想の概要」。二つほど、個人的関心にかかわるものについてメモしておく。まずはレティティア・モンテイユ=レング「古代ストア派における同一性と強度」。ストア派の霊魂論は、魂をプネウマから成る物体、外部との絶えざる相互作用に置かれたものとして扱い、異なるレベルの組織化がなされうるものと見なす。一方で魂の揺るぎなさの度合いに応じて、モラル的な一貫性も増すと考えられており、その基準はどこに設定されているのか、という問題を問い直すのがこの論考の主旨。魂は動的なものであるため様々に変化しうるけれども、主に四つのレベルでの組織化が施され、安定化するとされる。心理学的なパースペクティブ(霊魂論ではあるけれど)と倫理とが、ストア派においては地続きに捉えられているらしいところがとても興味深い。物質論的モラルの可能性か。
もう一つはオリヴィエ・ジャラニアン「エピクテトスの学校について」。こちらも、エピクテトスの教育理念が、学校の中での教義にもとづく教え、つまり理論の修得だけでなく、学校からひとたび外へ出たときの対処への応用、いわば理論の実践への結びつきをも重視していたことを説き証そうというもの。理論と実践の結びつきは実は難しい問題で、人は理論的な教説を説きながらもそれに即した行動を取らないというようなことが多々ありうる。それをどう変革し高めていくのか。エピクテトスはその問題を、「消化」の比喩でもって語ったりするようだが、それはいわば内部(個人の内的な臆見)と外部(哲学教育の教義)の混成の思想でもある。エピクテトスは学校を、そのような混成、あるいはプロアイレシス(選択・修得)を鍛える場として思い描くのだという。学内だけで完結しない、開かれた教育の場。ここにおいて、魂が流動的に変化するという上の論考の話とも重なり、ある種の教育論・学校論(学校にのみ限定されない営為のための哲学教育)が、これまた倫理の問題や存在論的視座と地続きのかたちで浮上してくるかのようだ。