実体的靱帯

ライプニッツ著作集 (9)フレデリック・ネフの先の著書の問題圏から、再び今度はライプニッツを取り上げよう。つながりの存在論の嚆矢とされるライプニッツだが、それは「実体的靱帯」概念が提示されているからだろう。この概念についてライプニッツが論じている代表的文献といえば、なによりもまずデ・ボスとの書簡がある。というわけで、とりあえずライプニッツ著作集 (9)』(工作舎、1989)所収の抄訳(佐々木能章訳)を見てみた。

そこで示されているのは、モナド同士が結びついて複合的実体(たとえば動物とか、有機的身体とか)を作り上げるという考え方。モナドそのものには別様と結びつく際に差し出す手のようなものはないとされる以上、複合的実体の存在を認めるならば、そこにはなんらかの「結ぶもの」が外部からもたらされなくてはらない。それをライプニッツは「実体的靱帯」と呼ぶ。それがどういうものなのかは明示されない。というか、これはあくまで論理的推論によって導き出されている概念なのだから、それ自体がどういうものか、どういう様態で結びついているのかを考察するというモーメントはここにはないのかもしれない。ただ、そうした靱帯が想定されなければ、全体の議論の体系が瓦解してしまうということになる、というわけだ。ネフが掲げる問題はある意味、メレオロジーやトロープス論など成果を当てはめて、そうした論理的概念として出てきた「実体的靱帯」なるものを現代的に刷新できないか探るというものになる。

面白いのは、この実体的靱帯という考え方が出てくる直接的なきっかけになっているのが、キリスト教の「化体説」をめぐる議論らしいこと。聖別されたパンと葡萄酒が、キリストの肉と血の実体化にほかならないというその教義にモナドの考え方を当てはめると、複合的実体としてのパンと葡萄酒のモナドがいったん消滅してキリストの血肉のモナドが生成し、パンと葡萄酒の「現象」のみが存続したようになる、ということになりそうだものだが、ライプニッツはそもそもモナドの生成消滅を認めない。そのため、モナドの結びつきによってパンと葡萄酒が出来上がっていたものが、その結びつきを解かれ(神の力によって)、代わりにキリストの血肉をなす結びつきがそこに出来上がったとすれば、モナドの生成消滅をともなわずに化体説の教義が救済できることになる。こうしてライプニッツは、モナドをモナドのまま温存し、代わりにモナドを相互に結びつけるなんらかのものを仮構してみせる。そしてその「靱帯」は敷衍されて、身体などの複合的実体を「支配的モナド」のもとで一つにまとめるための結合剤として提唱される。