まだまだ暑いが、夏休み気分はとりあえず脱した感じの今日この頃、リチャード・W・バーン『洞察の起源: 動物からヒトへ、状況を理解し、他者を読む力はいかに進化したか』(小山高正ほか訳、新曜社、2018)を眺めている。タイトルに惹かれて哲学書かと思って購入したら、動物行動学系の本だった(笑)。洞察という状況理解の能力が、動物からヒトへとどう進化したかを推察する書で、それはそれなりにエピソードも豊富で楽しくはあるのだが(ヒトの眼が視線追従できやすいかたちに配置されている話とか)、動物行動学からの議論を読むといつも気になることがある。それはつまり、現存する動物たちの行動に関する推察を、人間の過去へと投射するというそのやり方だ。そうした投射にはつい違和感を覚えてしまう。もちろんそうした投射は、進化の議論などを通じて理論上はそれなりに正当化されうるものではあるのだろうけれど、それにしても扱う題材として現存するいきものが、人間の過去にあてがわれ(幻想の過去に位置付けられ)、そうして人間のある種の優位性は問われないままとなる、という点が問題として残る。この図式、なんとかならんものなのか、というのがいつもついて回る感じだ。これに囚われ始めると、どうも肝心の本の中味になかなか浸りきれなくなってしまう。というわけで、同書についてもまだ半分くらいのところをウロウロしている。