日常感覚vs科学的見識

哲学のクリシェ的な設問として、「誰もいない森の木が倒れたとき、その音はあると言えるのか」という問題があるけれども、前回のリサ・フェルドマン・バレットの本には、科学の側の回答として、森の木が倒れた際の空気の振動のみがあるだけで、それを受容する感覚器官がなけえれば、音は存在しない、成立しないと記している。なるほどそれはそれで妥当な回答ではあるが、通念的な反応としては、どこかもやもやとしたものも残る。なにゆえにこの微妙な齟齬の感覚が残るのか。「聴覚の存在がなくても、空気の振動があることをもって、現象としての「音」はあると考えてよいのでは?」という応答も可能だからだ。通念的感覚と科学的見識の対立?では通念的感覚は何によって構成されているのか。日常の言語感覚?こういうふうに考えていくと、芋づる式に次々に問題にすべきことが出てくる。

ちょうど、そのような感覚的齟齬の問題を取り上げた一冊が出ていた。飯田隆『虹と空の存在論』(ぷねうま舎、2019)

ここで論じられているのは、「虹」という日常感覚ではどこか曖昧な存在が、なにゆえに曖昧に感じられるのか、そこにどのような存在論的な基盤が与えられているのかという問題。そもそもそれは実体をもつのか、それとも実体のない単に付随的な現象なのか、幻覚などとはどう違うのか。そのあたりを詳細に検討していくと、どうやら日常的な感覚、あるいは日常的な言葉には、「「存在論的」と呼んでよい」(p.138)錯覚が含まれているらしいことが明らかになっていく。そのような錯覚を促す要素もいくつかあり(センスデータの考え方など)、それを回避するための示唆も与えられている。たとえば「知覚の副詞説」(出来事としての虹を見ているときに、たとえば七色のアーチをその見えかたを示すものと捉えること)などだ。とはいえそれもまた十分とはいえないとされる。問いは一定の解決を見たかにも思えるものの、依然として開かれたままのようでもあり、この落ち着かない読後感が、さらにいっそうの探求への欲求を喚起する。哲学の術中にはまるとはまさにこういうことを言う。