ヴァナキュラー礼賛

民俗学の敷居を低く


 島村恭則『みんなの民俗学』(平凡社新書、2020)を読んでみました。一般的に農村などの風習とかを扱う、やや古くさいイメージ(固定観念というか偏見というか)がつきまとっている「民俗学」ですが、その敷居を思いっきり下げてみせる良書です。なにしろそこで研究テーマとして取り上げられているのは、家族のなかで生じるちょっとした「習慣」だったり、そういったものから転じているかもしれない都市伝説だったり、喫茶店の「モーニングサービス」の由来だたり、B級グルメの来歴だったり……。国外に目を転じれば、アジアの水上生活者たちの生活様式などを追ったり……。

 それらをつらぬくキーワードは、「俗習」を意味するヴァナキュラーです。その奇妙に錯綜した成立過程や意味の多様性などは、とても面白く、奥が深そうです。扱えるテーマもまだまだたくさんありそうですよね。これは「ぜひ研究してみたい」と思う若い人とか結構いるんじゃないでしょうか。

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さわる/ふれる

分析的アプローチから観る「触覚」の意味論


 ヴァレリー論がよかった伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020)を読んでみました。これも誠実かつ鋭い良書でした。キーになっているのは、「さわる」と「ふれる」の意味論的な違いで、これが「道徳」と「倫理」の意味論的な違いに重ねられ、またさらにはコミュニケーションの分類としての「伝達」と「生成」に重ねられます。そこから見えてくるのは、トップダウン的・一方向的な「かくあるべし」という姿勢に対するアンチテーゼとしての、ボトムアップ的・相互浸透的な「これもまた誠意」の姿勢です。ちまたでよく聞く「安全・安心」に対する「信頼」の位相でもありますね。個人的には直立に対する蹲踞の姿勢のようなものを連想しました。

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 アマゾンの書評の欄では、介護に携わっているらしい方から、誤読とおぼしきコメントが寄せられていたりしています。そこから逆に、次のような感慨を新たにしました。こうした細かい切り分けと通常とは異なる意味づけをベースにした著作というのは(ある意味、哲学的著作というのはそういうものなのですが)、やはりどこか伝わりにくいものなのかもしれません。

 問題となっているのは、介護の事例を挙げて、「ふれる」が相互浸透的な作用なので、隣接領域(性行為などの)にも開かれてしまう可能性もあると指摘しているくだりです。「かくあるべし」という大上段の硬直的姿勢が著者による道徳の定義であり、ふれるという操作はそういう道徳には馴染まないものだというのが著者の議論です。その意味で「ふれる」は「非道徳」だと著者は指摘するのですが、読み手は通常の道徳の意味にとり、さらには非道徳を不道徳(普通の意味での)ととってしまう可能性があるということです。まさにこれは、思想書・哲学的考察につきまというある種の悩ましさです。

Early Greek Philosophy VII

第7巻はアトミスト。主役はデモクリトス


 Loebのシリーズ『初期ギリシア哲学』。第7巻は「後期イオニア・アテナイの思想家たち」パート2ということで、レウキッポスやデモクリトス、そしてその弟子筋などの古代原子論者たちが中心。デモクリトスはいろいろ面白くて、原子と真空との話のほかにも、味覚などの感覚が違うのは、もとになる原子の集積の形状が違うからだ、と述べていたりします。どの味が何角形かと明示しているわけではなく、苦みを感じるのはざらついた形状だからだ、みたいな感じですが、テオフラストスなどはこれに、あまりに恣意的だとの批判を加えたりするわけですね。

 あと、意外に興味深いのが、雑多な事象についてのデモクリトスの発言です。そこにはある種の倫理的なスタンスとかもほの見える気がします。間接的な報告文からのものですが、「最も重要な事象について、われわれは自然の教え子である」とか、「(ものの)名前というのは偶然によるものであり、自然本性によるものではない」とか。「恥ずべき行いをなす多くの人々が、最良の言葉を育んでいる」「人はよく出来たことよりも、犯した過ちを覚えているものだが、それは正しいことである」。あるいは「教育を受けた人の希望は、無学者の富よりも力がある」「より多くの人は、自然本性よりも鍛錬によって善人になる」。このあたりになると、なにやら、ある種の金言みたいですね(笑)。

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計算が遍在する時代

現代に投げかける視座


 森田真生『計算する生命』(新潮社、2021)を読んでみました。タイトルから「生物学系の本?」とか連想していましたが、数学史の本でした。でも、数学史を貫く哲学的考察をも踏まえた、実に興味深い本です。最初のほうで取り上げられている、虚数やリーマン面の簡潔な説明はとてもわかりやすいものでしたし、操作と理解、あるいは分析と総合といったアプローチが、それぞれ両輪として、相互に関係しながらどう展開していったのか、あるいはこれからどう展開していくのがよいのか、といったあたりの問題が、一番の読みどころという感じです。

 カントやフレーゲ、ウィトゲンシュタインなど、哲学サイドへの言及もしっかりあって、数学史の醍醐味を、哲学との絡みなども含めて多角的に取り上げている点も、とても好感がもてる一冊です。

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古代の言霊信仰をどう捉えるか

真の言霊はどこに?


 とある報道では、五輪の中止論が内輪から出てきたときに、首相は「言霊になるからやめろ」と言ったのだとか。これを聞いて思ったのは、俗っぽい言霊信仰は、日常生活ならまだしも、国の為政者が政策的な判断において引き合いに出すべきものではないだろうに、という感想です。

 伊沢元彦の著書などで出てきますが、日本では失敗の可能性を考慮してプランBを用意しておくというのができない根本理由に、言霊信仰があるのでは、という話があります。言霊信仰(少なくともその世俗バージョン)では、失敗を言葉にしてしまうと本当に失敗してしまうとされることから、失敗は禁忌されるというわけなのですね。でもこれ、なんとも呪術的(魔術的)というか、肝っ玉の小さいセコい心性を感じさせます。国策にそんなものを持ち込むのは、あまりに前近代的でしょう。

 これを乗り越えるために必要なのは、まずは合理性や科学にもとづく判断ができるようにする教育だという気がします。それと、異論をも取り込んだオープンマインドの議論の実践でしょうかね。それって民主主義の基本にほかなりません。

 ……なんてことをつらつら思っていたら、伊藤益「言霊論——解釈の転回——」(『日本思想史学』19号(1987))(PDF→ http://ajih.jp/backnumber/pdf/19_02_02.pdf)という論文が検索上位に飛び込んできました。同じ読み方をする「言」と「事」の関係を「魔術的な等式を以て把握する思惟形態の存在を確認することが、そのまま直ちに言霊思想の存在を認知することにつながる」という通説に、異を唱えるという論考です。

 これによると、そのそも万葉集には、事が言を表す事例は多数あっても、逆に言が事を表すという事例はわずか(7例)しかないのだといいます。そこから、万葉集の時代にあってすら、言が事に転じること(言の事化)は、すでにごく限定的な出来事と見なされてるようになっていたのではないか、著者は推論しているわけです。文字より以前の言葉が、霊的な力をもっているとする思想そのものは、万葉集よりも昔の時代に、一種のアニミズムとしてすでに存在していたことが、ここでの前提となっています。

 面白いのは、そんな時代状況だからこそ、逆に言と事とを結びつけようとする魔術的等式が希求されたのだろうという指摘です。その等式を結ぶ・担うのが、言霊にほかならない、と。言霊は万葉集をもって初出とされているようですが、つまりそれは、言と事の結びつきが弱まってきた当時の文化風土のなかにあって、言の事化を改めて促進するための装置・作用因として言挙げされたものだったのではないか、というわけなのですね。著者はこの考えを、柿本人麻呂や山上憶良のもとに読み取っていきます。

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 仮に言霊が言と事を結びつける装置・作用因・媒質であるのだとするなら、それが俗っぽく広がってしまうような時代は、逆に言語と行為の分離が甚だしい時代、言ったことがもはや行動に移されず、実現もされえないような時代ということになるのかもしれません。五輪をめぐる様々なほころびと、言霊への恐れでがんじがらめになっているような政体は、まさにそのことを証しているのかもしれません。