エンデの物語と現実世界
ミヒャエル・エンデの『モモ』といえば、73年刊行(原書)の、児童文学のある種の金字塔とされている作品ですが、一部には現代社会を揶揄する寓意が強すぎるなどと批判する声もあるようですね。個人的にも、学生の頃に一度読んでみたときには、あまり感心しない感じだったのですが、kindle unlimitedに入っているのに気づいて最近読み直してみて、今だと結構面白く感じるなあ、と思いました。受け取り方というのはこうも変わるものなのですね。
時間貯蓄銀行の「灰色の男」たちが人々の時間を奪ってしまい、人々はあらゆることに急かされ、人間性やゆとりを失っていくなか、少女モモだけが、それにあらがおうとします。モモは時間を司るマスター・ホラに見込まれて、カメのカシオペアに導かれ、時間の外に一時的に赴いたりします(竜宮城みたいです)。ここで、敵の灰色の男たちとホラとが手打ちをするような展開だと、一連のジブリの映画みたいになってしまうわけですが(苦笑)、エンデのストーリーはそうした安易な筋立てに入らず、ホラが示すかたちで、モモは灰色の男たちの弱点を突いていくことになります。まあ、正統なファンタジーの筋立てですね。
で、ふと考えるわけです。現実の人々もあらゆることに小忙しく、機械的で、ゆとりや人間らしさを十全に味わうような生活はなかなかできませんが、そこでリアルなモモがいたとしたら、彼女はどう抗っていくのだろうか、と。ファンタジーのモモと違って、現実のモモは、ただひたすら呆然と立ちつくすしかないのではないか、何をどう変えていけばよいのか、まるでわからないのではないか、と……。
ファンタジーの限界はそのあたりにありそうですが、そこから先は、哲学であったり社会科学であったりの出番になるのでなければなりません。たとえばレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』が示したように、災害などの突然の断絶によって、人間の善意、相互の協力関係、心の豊かさのようなものが改めて発動することがあるといいます。もちろんそういう現象は一時的なもので、最終的にはもとの日常性のリズムへと回収されていくしかないわけですが、それでもなお、可能性の芽は、どこかに小さくうずくまっているに違いないと、思わないわけにいきません。それを伸ばすための活動は、ごく小さな、草の根的なものでしかないかもしれません。