プロタゴラス批判など
純粋に楽しみとしてプラトンを対訳で読んでいます。で、『テアイテトス』を読了。知識とは何かをめぐって、言葉のさらに下へと深く潜っていこうとする対話編(中期のもの)です。全体的に冗長な感じもありますが、読み進めていくとなかなか面白いです。希語版はLoeb、邦訳は光文社古典新訳文庫の渡辺邦夫訳(2019)。
テアイテトスは数学に長けた若者として登場し、ソクラテスはある種老獪に、テアイテトスを導いていきます。ソクラテス言うところの「助産的なアプローチ」だというわけですね。
前半はプロタゴラスなどの相対論、あるいは万物流動説が批判的に扱われています。個人的には、そちらのほうが思想史的に興味のある部分だったりもするので、少しソクラテス(というかプラトン)の図式的な見方に落ち着かない感じも抱きます。
ハイライトは終盤の、知識をめぐるテアイテトスとのやりとりで、知識(知っていること)が感覚にもとづくものではなく、また真の考え(思惟)でも、考えにロゴス(説明規定)を加えたものでもないと、ソクラテスの問いかけに対するテアイテトスの答えが、どれも不十分であることを論じていきます。理知的に問いを深めていくことの困難さが、二重三重に積み重ねられていきます。
最終的には、認識のはざまというか、なんらかの差異がおりなす、言葉に乗らないもの、というところにまで至ります。字母(アルファベット)への全体要素の還元の話など、なんだかわかったようでわかりきらない、もはや言葉で言いえない境地……という感じです。その先にはもはや「イデアの観照」のような、人間の不十分な知性を超えた、宗教的作用があるのみ、ということになるのでしょう。ソクラテス(=プラトン)のこの臨界点はとてつもなく大きな問題という気もするのですが……。
対話相手の理知的で若い俊英、テアイテトスのなかには、これで何が残ったことになるのかな、とつい思ってしまいます。