おおもとは反論にあり
最近読んだマルサスにしても、マルクスにしても、それぞれの立論は誰かの議論への反駁というかたちをとっています。思想的議論の根源というのは、やはり反論にあるのかもしれないなあ、と改めて思いますね。
思うところあって、最近またプラトンによる『ソクラテスの弁明』と『クリトン』を希語で読み直してみましたが、そこでもやはり、議論の出発点は反論にあり、という感じでした。まあ、裁判の場で糾弾されているわけですから、反論から出発するのは当然といえば当然です。メレトスとかアニュトスとか、糾弾する側への反論こそが、ソクラテス側の立論の根底をなしている感じですね。根源は単なる対話なのではありません。そうではなくて、反論・反駁なのです。ここを取り違えてはいけないと思います。思想を語るための基礎は、反論にあり、と。
昔、霊魂論の哲学史的研究と称してメモ取りながら読んだ『パイドン』も、Loeb版の同じ巻の所収なので、そちらもまた読み返そうと思っています。哲学的思惟と宗教的信仰のあわいを、改めて味わってみたいところです。