(bib.deltographos.com 2024/03/02)
昨年の秋に出た『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)を読んでみました。アーレントがアイヒマン裁判について記した『エルサレムのアイヒマン』の副題にもなっている「悪の凡庸さ」というフレーズは、通俗的な文脈では、いわゆる歯車理論(普通の一個人が組織に歯車として従属する、という見方。関係した個人の責任が相対化される点で、問題含みの理論ですね)との関連で取り上げられることが多いと思いますが、アーレントの真意はまったく別のところにあったし、アイヒマンを単なる歯車と見なすのは大きな間違いだ、ということを、改めて開示した良作です。
同書は、歴史学者と哲学研究者からの寄稿、そして討論会で構成されています。歴史学からは、アイヒマンが平凡な官僚などではなかったことがまず示されていきます。口八丁手八丁という感じで、仕事の能力は高く、また自己演出に長けた特異な人物像だというのですね。その一方で、哲学の側から、アイヒマンの発する言葉には決まり文句が多く、他人の身になって考えるという姿勢が一向に見えず、ある種の感性が欠落している浅薄な人物像が浮かび上がる、とも指摘されます。
このギャップ、この二面性をどう捉えるか、その際に「凡庸さ」という言葉がどう当てはまるのか、反ユダヤのイデオロギーはアイヒマンにどう関わってくるのか、などが大きな問題とされています。
哲学の側はまた、そもそもアーレントのいう「悪の凡庸さ」は、通俗的理解での歯車理論のことなどではなく、他者に身を寄せる思考の欠如による浅薄な悪、といった意味での「凡庸さ」なのだと指摘します。絶対的・根源的な巨悪の実在を想定するのは危険だというヤスパースの言葉を受けて、アーレントは「浅薄さ」にこそ、その悪の始原を見ようとしていたのだ、というのですね。
アーレントもそうですが、哲学者は自分の使う用語に、普段使いの意味とは別種の意味を込めることが多々あります(それが哲学的営為の本筋でもあったりします)。ところがその別種の意味について言葉を尽くして説明していないことも多々あり、これが多様な解釈の、あるいは誤解のもとになってしまう、というわけです。
歴史学と哲学研究との、目的やスタンスの違いも興味深いものがありますね。このアイヒマンの問題だけにとどまらず、こうした学際的な討論は、通俗的理解に対する批判的啓蒙という意味でも、重要なものだと思います。もっといろいろ読みたいですねえ。