「自発的隷属論」から進展しているの?
先月ですが、『システム正当化理論』(ジョン・Tジョスト 北村英哉 池上知子 沼崎誠訳)を読んでみました。うーん、結論から言うと、ド・ラ・ボエシーの『自発的隷属論』から、それほど進展してはいないような気が……(苦笑)。もちろん、現代の学術的環境に合わせて、データ的な裏付けや細かい理論的仮説が加わってはいるわけで、ボエシーの印象論的な議論は補強されているということなのでしょうけれど、それにしても、そこから大きく飛躍したという印象はありません。
この議論の要は2つ。1つは、ステレオタイプ化がイデオロギー的な支えをなしているということ。もう1つは、陣営内部が上位層と下位層に分かれ、下位層がなぜか上位層を支持してしまうという構造を持っているということ。
そもそもシステム正当化は、自己正当化、集団正当化では説明できない、ある集団内の「搾取される側であるにも関わらず、搾取する側を支持してしまう現象」を説明するために出て来たものだとされます。でもそうすると、上の2つめの議論は、同語反復にすぎず、説明になっていないような気もするのですよね。
説明らしいものとしては、たとえばシステム正当化の心性は、社会の予測不可能性などの不安感を緩和するなどと論じられています。ステレオタイプがそうした心性を支えているからだ、と。でもこれも同語反復的で、あまり中身を深彫りしているようには見えません。
問題は、不安感の緩和を遥かに超えて、システム正当化は、著者も指摘するように、システム変革への機運を削いでしまうことにあります。この点については異論はありませんが、ではどうするか、という処方箋は示されないまま。システム正当化という主張への異論や反論を受け止めて見せたところで、学問上はともかく、現実的な情勢に対応できる方途が得られるわけでもなさそうです。もちろん、自己肯定感などが強まることで、システム正当化との齟齬が起きる可能性も高まる、とは言われているのですが……。