映画『スモーク』(’95)

先ごろ亡くなったポール・オースターが原作・脚本で参加した映画『Smoke (1995)』を、思うところあって配信で再見しました。ハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハートが共演する、ウェイン・ワン監督作品ですね。

昔観たときには、「群像劇っぽいところは良いけど、人間関係の薄さ・冷淡さみたいなものがなんだか前面に出すぎている感じもする」、なとど思ったように記憶しています。人情ものでありながら、どこか覚めている感じ、とでも言いますか……。そういうところに、少し違和感を覚えたのかもしれません。

でも、例のごとく細部はすっかり忘れていました。今回見直してみて、むしろこの距離感こそが絶妙だなと思えました。また、当時は私自身もスモーカーだったせいか(だいぶ前にやめていますが)、別に感じなかったのですが、作中でこんなに絶え間なくタバコをふかしていたんだったっけ、と思ってしまいました。そう思って観ると、登場人物たちが吐き出す「スモーク」こそが、彼らの、ずったりべったりにはならない絶妙な、都市空間的な距離感を際立たせているようにも思えてきます。

4000日にもわたって同じ場所の写真を撮っているという主人公の、控えめな芸術観も素晴らしいですね。反復することによって差異が際立っていくという、まさにアートの基本をなす実践です。そのあたりにも、今となってはすこぶる共感できます。終盤に主人公が語る若い頃の物語を、エンドロールでモノクロ映像で見せるのですが、これもどこか洒落た演出です。語られた物語が、本当に若き日の話だったのかどうかと、そんな微笑ましい疑問を抱かせる終わり方です。

そんなこんなで、この作品は以前よりも、個人的評価が高まったような気がします。観る側の変化ということなのですけど、こういうことがあるので、再見、再読も捨てがたいわけです。その上で、ポール・オースターについてはこれまでちゃんと読んだことがなかったので、あらためて少し読みかじってみようかしらと思いました。

 

合理的な「信」

映画『落下の解剖学』(Anatomie d’une chute (2023))を配信で観ました。2023年のカンヌでパルムドールに輝いた作品ですね。屋根裏部屋から落下した夫の死を巡って、殺人容疑に問われた妻と、視覚に障害のある幼い息子が、裁判を通じて追い込まれていく姿を描くというもの。

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でも終盤、その息子が見せる「合理的な信」を貫く姿勢がなんとも良い感じでした。母親が殺人をしたのかどうかをめぐり、息子はそれはありえないと考えます。検察側は「それはあなたの推測でしかありませんね」(どこかで聞いたことのある論法ですね(笑))と追い込みます。

これに対して息子は、「どちらも確証がないなら、合理的に納得できるほうを選ぶ。それは裁判がやっていることそのものだ」みたいなことを滔々と語ります。この凜とした姿が圧巻です。人は自分の主張をみずから信じなければ、そもそも生きていけないかもしれない……そのことを高らかに宣言してみせたわけですね。

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けれども、そのような信は、ときに危うく、そして怪しいことも十分ありえます。これも最近読んだのですが、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』は、まさにそんなことを考えさせます。

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AIが一人称で語るという、なかなか斬新な小説なのですが、ここに登場するAIは、みずからが抱く信と、それにもとづく決断(判断)に、身を委ねようとします。読者はその信が、実は最初から的外れであること、またAIがその信にもとづく行動を決断しても、とりあえずは誰かの迷惑になったりすることはないことを知るのですが、それはたまたまそうだったに過ぎなかったりします。これがもしもっと違う方向に向かったりしたら、それはちょっと空恐ろしいことにもなりかねないな、ということを、読み手は感じとります。

本人(作中では人ではないですが)が抱く信が、きわめて「合理的な」信であるところが、空恐ろしさに拍車をかけます。翻って私たち、人の合理的な信というものも、同じようなものだったりしないのか、という問いが浮かんできます。人の生きていく糧にもなりうる信は、同時にこうした危うさを孕んでいないか、と。これをどう捉えればよいのでしょうか。問題になるのは「合理」の中身なのでしょうか?

 

リアリズム小説——古いか新しいか

ランシエールの文学評論集の一つ、『フィクションの縁』(Les bords de la fiction – Jacques Rancière)をざっと読んでみました。

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学術的な本にも、ある種のドラマトゥルギーがあるとして、マルクスの『資本論』に出てくる布と衣服の対比などが、いわば登場人物のような扱いになっていることを指摘していたりして、ちょっと変わった論評集になっている気がします。

で、とくに印象に残ったのは、19世紀以降の、いわゆるリアリズム小説についての考察。アリストテレスの劇作論以来、フィクションの主人公には、運命を切り開くような能動的な人物が配置され、運命に翻弄されるしかないような、受動的な人物は、あくまで脇に置かれるしかなかったわけなのですが、近代になって、とりわけマルクス主義の影響などによって、この対比が逆転され、受動的とされた人々、社会のありふれた人々が、フィクションの主人公として前面に出されるようになっていきます。ここまではわりと普通の話です。文学研究者のアウエルバッハなどは、ここにフィクションの未来を感じ取っていたりするのだとか。

でも、本当にその対比の構図は逆転したのか、とランシエールは問うてみせます。ありふれた人々も、ひとたび作品に取り上げられると、特異な人物として描かれるのではないか、と。対比の構図は温存されているのでは、と。

かつてのフィクションのように、作品のプロットは時間の経過に必ずしも依存しなくなっており、それに代わり場所の連関などがプロットを支えるようになってきた、とランシエールは指摘します。ジョイスの『ユリシーズ』などが念頭にあるような感じですね。で、そのあたりが変わっても、そこで描き出されるのが、なんらかの特異な人物としてであることに、変わりはないのではないか、というのですね。

こうしてランシエールは、リアリズム小説は、それ以前の小説作品に比べて新しいものであるかもしれないが、構図としては存外に古めかしいものであり続けている、という話にもっていきます。

個人的に、最近、マルカム・ラウリーの『火山の下』や、カルロ・エミーリオ・ガッダの『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』を、ちびりちびり読んでいる身としては、なにやらこうした論評が、とても納得できるように思えます。それらの作品では、ありふれたものと、特異なものとが、分化していくプロセスのようなものを、ひたすら読まされている気分になってくるからです。

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