岩波文庫入りしたデリダの『他者の単一言語使用』(守中高明訳、2024)。これは嬉しい。というわけで、さっそく読んでみました。原著は1996年の本ですね。
対話編になっていて、どこか詩を聞いているような流麗な言葉が綴られていきます。これはある意味、至福の読書体験かもしれません。思想に詩は先行し、そして思想はどこかで詩になっていくのかもしれない、とそんなことを感じながら読み進めていけます。
先日の『批評空間』の臨時増刊号でも思いましたし、前にも記していたかと思いますが、言葉がからむ思想的営みはみな、先行するなんらかの思想的営みに対する応答(批判とか反論とか)でしかないのでしょう。更に、加えて、あらゆる思想的営みは、それがどんなに抽象的なことをテーマに据えていても、現実的・社会的な文脈から逃れることはできないものなのかもしれません。このデリダの著作もしかりで、デリダがマグレブ系フランス語話者であるということを抜きには書かれ得ないような文章です。
フランス語はデリダにとっての基本言語でありながら、母語・固有の言語とはそのそも言えないようなもの、どうしようもない違和感を抱かせるものだったのでしょう。その背景には植民地支配の長い歴史があり、かくして押し付けられ、内在化を無理強いされた言語を、デリダは冷徹かつ微細に観察して行きます。背景をなす政治的状況、固有性のないところで固有性を求めようとする欲望の構造、そこから志向される、もとより到達不可能な最初の言語という幻想(幽霊)、そして詩。デリダの旺盛な著作活動を支えていたものがなんだかったか、少しだけ想像できるような気がします。
個人的に、学生のころはデリダ(などいわゆるフランス現代思想もの)の、一見文意不明な文章とかに、とにかくねじ伏せてでも意味を見つけ出してやると言わんばかりに、どこか激しい格闘術的な読み方で対応していたものです。でも歳を取ってきて、いろいろとガタつくようになると、もっと静かに、薄い上澄みだけをすくっていくだけの、そういう読み方でもいいか、と思えるようになってきました。特に後期のデリダの文章には、もしかしたらそういう読み方のほうが合うのでは、とも思えます。詩的・音響的で味わい深い、とても豊かな喜びの時間が、そこから広がってくるかのようです。