今度は初期のデリダ。少し前に邦訳で出た『思考すること、それはノンということである』の原書が、Kindleで出ているのを見かけたので、読んでみました。”Penser c’est dire non” (Seuil, 2022)です。
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本当の最初期(助手時代)の講義録(1960年から61年にかけてのソルボンヌでの講義)。のちのデリダの独特な表現はまだ確立されていないので、とてもかっちりした精緻な哲学的議論ですが、ところどころに、のちの独特な用語法や言い回しを予感させるところもあったりして、とても興味深い文章になっています。ドゥルーズなどもそうですが、デリダもまた、表現の妙味の下層には、本来的にかなり精緻な議論がかっちり組まれていそうなことが、改めてわかる気がします。
題材となっているのはアランの「考えるとはノンということ」というテーゼで、これを読み解きながら、否定性というものが、哲学の存立基盤の重要な要素をなしていることを明らかにしていきます。考えるということはそもそも、ただぼーっとしているような状態から脱することを意味するわけで、その意味では、与えられた「現在」の状況を、あるいは自分自身を、安寧に受け入れているだけ(ウイと言う)では、そこから抜け出すことはできません。「そうではない」(ノンと言う)といきり立つ契機がなければ、考えというものは成立しません。改めて認識する、意識するとは、否定から始まるというわけなのですね。
アランの場合、そこから信仰(宗教的ドグマ、あるいはドクサ)への、かなりラディカルな批判・拒絶が導かれるといいます。「信じる」ということは、すでにして自由な判断を奪われている状態であり、真理に到れるのは、そうした自由な判断があればこそです。本来的に、判断の自由こそが、真理を真理として成立させるのだ、というわけです。そしてその出発点には「否定」がある、と。
デリダはさらにそこから、否定の在りようにまで沈降して行きます(援用されるのは、現象学系の議論ですね)。というのも、いくら根底に否定・否認があろうとも、真理の正当性・価値への信頼がなければ、そもそも否認もできないからです。そうした信頼があってこそ、事実上の真理の欠如への対応として、否認が在りうるというわけなのですね。このことからデリダは、否定する当の対象というのは、実体として存在するものではなく、一つの「取り憑き」(hantise)として明滅的に在るのだ、と言います。するとここから、否定・否認は、実のところ判断に先立つもの、判断の手前の隘路、ということになります。
哲学の根本としての否認。これは今やとても重要になっているように思います。少し前ですが、とある仏教の僧侶の法話(というか雑談?)で、仏教思想にかこつけた差別論みたいなものを聞かされてしまいました。たとえ寺のような狭い空間であっても、そういうドクサ(あるいはドグマなのでしょうか)がまかり通ってしまうのは問題でしょう。こういう言論には、ふむふむと聞き入るのではなく、やはりとことん反論が必要ではないかと改めて思った次第です。