世界の知覚と技芸

メルロー=ポンティ絡みで、最近出たメルロー=ポンティ論『問いが世界をつくりだす』(田村正資、青土社、2024)を読んでみました。
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同書はメルロー=ポンティの知覚論、世界認識論について、その真意を解釈しようとする論考のようですが、扱われる問題系でとくに注意を引くのは、なんといっても現象の現れと規範の問題、対象と主観のはざまの問題です。なにかの技芸に熟達した人が、弟子とかの技芸をみて「これは違う」と違和感を示すときの、その規範性はどこにあるのかという話です。感覚にはそもそも判断の要素がありませんし、言葉を伴うような合理的な判断でもありません。ではそれは何なのか、と。

同書の著者は、メルロー=ポンティをもとに、主体が何を知覚するかは、「主体の現在のタスク」「環境の在り方」「主体がもつ運動技能」で決まると記しています。さらに続けて、運動技能とはこの場合、運動を行うのに適した「世界のセッティング」を認識することだと述べています。その認識は、図と地の構図のように、背景から前景へとせり上がってくるものとされます。するとそれは、意味の出現の問題にもなり、意味の出現はもはや、生得的なものの投影か、経験により習慣的に獲得されるものかという二分法を超えたところに在る、と捉えることができます。これぞまさに、同書の副題にうたわれた「曖昧な世界の存在論」の出立なのですね。

主体が世界に開かれ、世界もまた「組み尽くしえない」ものとして現れる。なにやらこれ、ある意味「東洋的」ともいえるような知を感じさせます。これも最近読んでいるものですが、山水画論を通じてテクノロジーを再考するという野心的な試みとして、『芸術と宇宙技芸』( ユク・ホイ、伊勢康平訳、春秋社、2024)があります。
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これによると、中国の画論の伝統に、像というものは現象と印象との間にある、という議論があるのだとか。像は知覚する人から独立した現象ではなく、ある種の類似性にもとづいて知覚されるものであり、その類似性には、主体による判断が必要とされる、というわけです。現前するすべてのものは、否定的な力(地の)と肯定的な力(図の)によって成り立っている、という記述もあります。上のメルロー=ポンティ論と通底する、主体ベースの認識=存在論というところでしょうか。

そして、こちらの本では、老荘思想における「玄」が、ここに関わってきます。深遠さを意味する玄は、有と無に対する第三項として位置づけられ、著者はこの玄を包摂の関係(排他の関係)として捉えるのではなく、有と無を行き来する「再帰」の論理として理解すべきであると主張しています。

興味深いのは、この宇宙技芸(世界を認識する技法)としての山水画という論を導出するのに、著者が、シモンドンやスティグレールなどフランスの科学哲学的な伝統を盛んに引き合いに出してくる点です。その流れ(上流)の一端には、あきらかにメルロー=ポンティの姿も見え隠れしています。