詩の底力のようなもの

昨秋のノーベル文学賞で一躍有名になり(少なくとも個人的にはそんな感じでした。なにせ韓国の文学はまったく知らなかったので)、書店その他でもプロモーションがかかったハン・ガン。せっかくだからということで、kindle版の出ている作品をいくつか読んでみました。

一つは『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出文庫、2023)。詩作品とされていますが、作品全体の輪郭がエッセイのほうへと開かれているというか、詩とエッセイ(と小説)の境目をたゆたっているような、なにやらおぼろげで、それでいてどこか凛とした佇まいの、不思議な印象をもたらす作品集でした。
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同じような詩的な文体ながら、小説としての輪郭が少しだけ強調されている、という印象なのが『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社、2017)です。ギリシャ語講座に通う、発話機能を失った女性と、視力を失いつつある講師の男性の、それぞれのモノローグが交互に示され、やがてそれらが交差する瞬間が訪れるというのが大枠の筋立てです。内面的な空間が位相的に重なって(?)浄化される、みたいな。こう記すとよくわからない感じになってしまいますが、とにかくある種の救済の物語です。ギリシア語、ギリシア哲学に、そのあたりが淡く託されているのが見事だと思いました。
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で、もう一つ『少年が来る』(井手俊作訳、CUON、2016)。韓国の民主化運動が悲劇となった1980年の光州事件を描いた作品と聞き、こうした詩的な文体・構成で歴史的な事件・事象を描き切れるのだろうかと、読む前に少し動揺してしまったのですが、読み始めるとまったくの杞憂でした。死者たちへのレクイエムとして、これ以上ないほどにフィットしていました。
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ハン・ガンのこれらの作品は、詩のもつ底力のようなもの、詩の可能性の一端を、改めて感じさせてくれるように思われます。kindle版のある邦訳作品はまだ少しあるようなので、引き続き読んでいきたいと思いますね。

隘路しかないのか?

国内在住ながらフランス語で作品を書き発表するという、特殊なかたちで作家活動を行っている水林章氏。同氏が日本語について綴ったエッセイ集『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社、2023)を読了しました。
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対等の市民同士が相互に議論をし社会を築いて行く、という市民社会の理想のあり方に反して、どこまでも上意下達になってしまう日本。その構造を支える背景に、複雑な「敬語」のシステムを擁する日本語そのものの構造があるのではないか、という議論を展開しています。いいですね、これ。フランスに暮らした森有正以来の論だということですが、外国語を通して徹底的に外在化して見るからこその議論でしょう。また、こういう論点はリベラル派ならではという気もします。言語のそうした構造化は、社会的制度(幕藩体制以来の)と表裏一体の関係にある、とされますが、とすると、上下関係に依らない社会制度を構築しようとするなら、言語から変えていかなくてはならない、ということになるからです。

ただ、言語のそうした構造を見出したとして、穏健派として革命や戦争による大変革を呼び込まないとしたら、そこにどのような変化の種をまくのかが難しい問題として残ります。「先生」と呼んでいた相手を「さん」と呼ぶ、といった何気ない方法もその一歩なのかもしれませんが、それはあまりにか細い隘路の一歩、のように映ります。長い年月をかけて蓄積された言葉の鉄壁を前にすると、絶望的なまでに非力にも見えます。制度のなかに否応無しにありつつ、それを変えていく芽を育むにはどうすればいいのでしょうか?隘路しかないのでしょうか。

これと並行してもう一つ、星野太『崇高と資本主義』(青土社、2024)も読んでいました。こちらは「ポストモダン」の修斗とも言われたリオタールについての論考です。
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芸術を基本的に、あらゆるものを取り込んでしまう商業主義・資本主義への抵抗とみなすリオタール。その抵抗を彼は「崇高」なもの(非人間的なもの)と称していた、というのですが、同時に資本主義そのものも(非人間的なものという意味で)崇高なものと称しているのですね。同書の前半はこの二重性を丁寧に読み解いていきます。

リオタールはアメリカなどで曲解されてしまうのですが、同書の後半は曲解による派生的な議論について批判的にまとめています。資本主義をさらに加速させ、内破させようという加速主義などですが、これなどは結局、資本主義に取り込まれてしまって終わり、ということになりかねません。資本主義についての認識の議論を超えて、「制度のなかにありつつ、制度を変えていく」方法を、リオタールも含め、ポストモダン界隈の論者たちは具体的に示してこなかったように見えます。でも今や80年代などとは違って、求められているのはやはり抵抗の方法論のほうですよね。突破口を探す。これこそが個人的にも最も惹かれるスローガンです。

「自己中?」な世界観

昨年の秋から冬にかけて、個人的に以前関心のあった分野の二冊が文庫で刊行されました。一つはマリニウス(マーリー二ウス表記)『アストロノミカ』(竹下哲文訳、講談社学術文庫、2024)。マリ二ウス(個人的に長音表記はあまり好きでないので、こう記しますが)は、1世紀ごろのローマの詩人とされています。本作があるので、占星術師ともされていますね。占星術の基本的な事項が、韻文の詩として詠まれて いきます。占星術そのものよりも、個人的には詩としてのほかの要素がとても興味深く思われました。
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もう一つは、待望のプラトンの『ティマイオス』(土屋睦廣訳、講談社学術文庫、2024)です。西洋中世への影響力という意味では最重要のテキストなのに、これまで文庫版がなかったのが不思議でした。個人的にもこれまでなんどか通読していますが、何度読んでもわかったようなわからないような、不思議な感覚に浸ることができます(笑)。今回は、とりわけ訳者の解説が読みたくて購入しました。
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とくに前者に顕著ですが、同心円的な天空を描く天動説の世界観は、観察者の立ち位置、つまりは人間の「自己」が中心となった、世界に広がる心、みたいな構図になっています。後者においても、たとえばアトランティスの話などもそうですが、中心(四方へと航海する場所ということで、中心的です)にまつわる話が多々盛り込まれています。天が円形・球形に作られた話でも、魂が引き伸ばされ(拡張され?)て、回転運動をなすとされたり。重要なのはとにかく「中心」なのですよね。神々について語っていようとも、観察者としての人間の存在が、ほぼ中心に位置づけられ鎮座している感じです。西欧の古代世界は、このようにひたすら人間が中心の構図、まさに「自己中」なのだ、というわけでしょうか。そしてこの構図は、その後の諸世紀を経ても、たとえ地動説に移行しようが、進化論が唱えられようが、脱構築が唱えられようが、ひたすら温存されていくように思われます。

では東洋の古代世界はどうなのでしょうか。通俗的な理解では、仏教の瞑想など、自己の無化、中心の空位の思想のように言われたりすると思いますが、果たしてそれは脱中心化と言えるのでしょうか。原典(一次資料)ではありませんが(仏典などは読んだことがないので)、たとえば最近刊行された論考、エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのかーー私が仏教徒ではない理由』(藤田一照ほか監訳、Evolving、2024)などを見ると、どうもそうではなさそうです。
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同書は、仏教モダニズム(現代世界に流布している、原理主義などをふくむ仏教の潮流)について、とくに「自分たちの宗教のみが正しい」「自分たちが説く仏教は科学と親和的だ」などとする立場を批判しています。中でも、自己の非実在という論点や、悟りとは非概念的な何かであるとする主張などが、科学的・哲学的議論に耐えるものではないことが指摘されています。どうも一元論的世界観は、二元論的な議論にさらされると、さっさと退散し引きこもるか、あるいは無理やりにでも理論武装するかになりがちで、仏教世界にあってもまた、「自己中」的な面が、かえって少なからず強靭に構造化されている印象を受けます(古代の仏教がそうだったのかどうかは知りませんが)。人間中心主義の外へと逃れることは、かくも難しい…ということなのでしょうか?