国内在住ながらフランス語で作品を書き発表するという、特殊なかたちで作家活動を行っている水林章氏。同氏が日本語について綴ったエッセイ集『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社、2023)を読了しました。
https://amzn.to/41jaiB7

対等の市民同士が相互に議論をし社会を築いて行く、という市民社会の理想のあり方に反して、どこまでも上意下達になってしまう日本。その構造を支える背景に、複雑な「敬語」のシステムを擁する日本語そのものの構造があるのではないか、という議論を展開しています。いいですね、これ。フランスに暮らした森有正以来の論だということですが、外国語を通して徹底的に外在化して見るからこその議論でしょう。また、こういう論点はリベラル派ならではという気もします。言語のそうした構造化は、社会的制度(幕藩体制以来の)と表裏一体の関係にある、とされますが、とすると、上下関係に依らない社会制度を構築しようとするなら、言語から変えていかなくてはならない、ということになるからです。
ただ、言語のそうした構造を見出したとして、穏健派として革命や戦争による大変革を呼び込まないとしたら、そこにどのような変化の種をまくのかが難しい問題として残ります。「先生」と呼んでいた相手を「さん」と呼ぶ、といった何気ない方法もその一歩なのかもしれませんが、それはあまりにか細い隘路の一歩、のように映ります。長い年月をかけて蓄積された言葉の鉄壁を前にすると、絶望的なまでに非力にも見えます。制度のなかに否応無しにありつつ、それを変えていく芽を育むにはどうすればいいのでしょうか?隘路しかないのでしょうか。
これと並行してもう一つ、星野太『崇高と資本主義』(青土社、2024)も読んでいました。こちらは「ポストモダン」の修斗とも言われたリオタールについての論考です。
https://amzn.to/3X50t7B

芸術を基本的に、あらゆるものを取り込んでしまう商業主義・資本主義への抵抗とみなすリオタール。その抵抗を彼は「崇高」なもの(非人間的なもの)と称していた、というのですが、同時に資本主義そのものも(非人間的なものという意味で)崇高なものと称しているのですね。同書の前半はこの二重性を丁寧に読み解いていきます。
リオタールはアメリカなどで曲解されてしまうのですが、同書の後半は曲解による派生的な議論について批判的にまとめています。資本主義をさらに加速させ、内破させようという加速主義などですが、これなどは結局、資本主義に取り込まれてしまって終わり、ということになりかねません。資本主義についての認識の議論を超えて、「制度のなかにありつつ、制度を変えていく」方法を、リオタールも含め、ポストモダン界隈の論者たちは具体的に示してこなかったように見えます。でも今や80年代などとは違って、求められているのはやはり抵抗の方法論のほうですよね。突破口を探す。これこそが個人的にも最も惹かれるスローガンです。