異世界嵌入もの

今年始めに亡くなったデヴィッド・リンチ。その追悼の意味もあって、少し前、久しぶりに『マルホランド・ドライブ』(2001)を観ました。これ、個人的にリンチの作品の中でもとりわけ好きな一本で、何度か観ています。とっつきやすさでも、一位二位を争う作品だと思っています。
https://www.imdb.com/title/tt0166924/

『ツイン・ピークス』あたりからとても顕著だったと思いますが、リンチの作品は「異世界嵌入もの」とでも言ったらよいでしょうか、作品世界の中に、その世界に対する異世界のようなものが唐突に嵌入してくる、みたいなのが多いですよね。それで作品が複雑・難解と言われてしまうわけですが、『マルホランド・ドライブ』は、その中では割とわかりやすいものになっている印象です。

こういう異世界嵌入に対して、作品内で登場人物がどう反応するかは、大まかなサブジャンル分けの指標になるかもしれませんね。登場人物がまずもってその異世界を認識するかどうかも問題です。認識し、それに対応しようとすれば、それだけでホラーなどになりえますし、認識できてもただ振り回されるだけだと、一種の不条理ものになっていきます。認識しないけれど、さしあたり目前の事態に対応するという場合、ある種のミステリーものとかに。認識せず、対応もできないという場合は、メタものや不条理ものなどいろいろな可能性がありそうです(『マルホランド・ドライブ』はここに入るでしょうか)。作り方によっては不条理を通り越して作品そのものの意義が失われそうになったりすることも(シャマランの『ハプニング』とか?)。

さて最近、国書刊行会のスタニスラフ・レム・コレクションに入っている『捜査』と『浴槽で発見された手記』の合本が、ようやく電子書籍化されたようで、さっそくkindle版を読んでみました。どちらも不条理な物語です。
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『捜査』は78年刊行の文庫本(深見弾訳)を読んだことがありますが、今回のは台詞回し(の訳)のせいか、少しわかりずらさというか不条理感が増している印象です。いずれにしても、これもまた、異世界嵌入ものという感じで、上の最後の類型(というほどのものでもないけれど)に分類されそうですが、挿話として統計的・確率論的な話、AI的な判断が人間の管理を逃れるみたいな話が先取りされていたりして、今読むとなにやら示唆的です。

庭師たれ、とその本は言い。

昨年の春くらいに、ローティとか東浩紀とか、社会体制の行き詰まりに抗するための方策として、小さな共同体を推奨する議論をいくつか目にしました。でも、ではそうした共同体があまり快適でない場合はどうするのかな、という疑問もありました。実際日本では、趣味の集まりなどもすでにしてそうですが、新たに参入するときの壁(すでにある上下関係とか、求められる儀式的な身振りとか)はそれなりに高いように思います。

ところがここで、期せずして、共同体なんていらない、個人としてなにがしかの「制作」に励むことが、体制の内破への第一歩だ、と説く本が出てきました。これは嬉しい。宇野常寛『庭の話』(講談社、2024)です。
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タイトルが地味だったこともあって、あまり期待せずに読み始めたものの、実によく練られた実践推奨の書、という感じです。プラットフォーム(大手のSNSなど)上での相互承認ばかりに始終するようになった今のネット社会。そにおいて失われている、「世界に事物に直接手でふれる」ときの手触りを取り戻すためには、では何が必要なのか。同書は、必要とされるのはネットと自然の世界のはざまに置かれるべき「庭」であり、そこでの人間的な「制作」の営みである、と主張します。

庭も制作も、もちろん比喩的なものです。人が手を加えることで自然の中から切り出され、適切に整備・維持されるものとしての「庭」は、ネットが中心となった社会環境の中に重ね合わされるとき、どのようなものとして立ち現れるのか。著者はすでに散発的に行われている自主的な試みの数々をもとに、「庭」と括ってみせたその概念の可能性を広げて行こうとしているようです。

制作もしかり。単なる消費でも浪費でもなく、それらの果てにみずから事物にふれるための実践として推奨されています。単に共同体に群がるのではない、それはある種の孤高の営みですが、それがいたるところで散発的に(場所も対象も多様なかたちで)行われていくことで、承認の欲望にのみ囚われた心性が、再び事物の方へ、事象の方へ開かれて行くのでないかという、一種の賭けです。この賭けに、個人的にはぜひ乗りたいです!