昨年の春くらいに、ローティとか東浩紀とか、社会体制の行き詰まりに抗するための方策として、小さな共同体を推奨する議論をいくつか目にしました。でも、ではそうした共同体があまり快適でない場合はどうするのかな、という疑問もありました。実際日本では、趣味の集まりなどもすでにしてそうですが、新たに参入するときの壁(すでにある上下関係とか、求められる儀式的な身振りとか)はそれなりに高いように思います。
ところがここで、期せずして、共同体なんていらない、個人としてなにがしかの「制作」に励むことが、体制の内破への第一歩だ、と説く本が出てきました。これは嬉しい。宇野常寛『庭の話』(講談社、2024)です。
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タイトルが地味だったこともあって、あまり期待せずに読み始めたものの、実によく練られた実践推奨の書、という感じです。プラットフォーム(大手のSNSなど)上での相互承認ばかりに始終するようになった今のネット社会。そにおいて失われている、「世界に事物に直接手でふれる」ときの手触りを取り戻すためには、では何が必要なのか。同書は、必要とされるのはネットと自然の世界のはざまに置かれるべき「庭」であり、そこでの人間的な「制作」の営みである、と主張します。
庭も制作も、もちろん比喩的なものです。人が手を加えることで自然の中から切り出され、適切に整備・維持されるものとしての「庭」は、ネットが中心となった社会環境の中に重ね合わされるとき、どのようなものとして立ち現れるのか。著者はすでに散発的に行われている自主的な試みの数々をもとに、「庭」と括ってみせたその概念の可能性を広げて行こうとしているようです。
制作もしかり。単なる消費でも浪費でもなく、それらの果てにみずから事物にふれるための実践として推奨されています。単に共同体に群がるのではない、それはある種の孤高の営みですが、それがいたるところで散発的に(場所も対象も多様なかたちで)行われていくことで、承認の欲望にのみ囚われた心性が、再び事物の方へ、事象の方へ開かれて行くのでないかという、一種の賭けです。この賭けに、個人的にはぜひ乗りたいです!