一部のシチュエーションスリラーに足りないもの

Netflixで夏頃に配信していたドイツ映画『ブリック』(フィリップ・コッホ監督、2025)。全体的な評価点は低いようですけど、個人的には面白く観られました。ある日突然、マンションの各部屋が、窓も扉もなにかブロックのようなもので囲われてしまい、誰も出られなくなります。住民らは横穴・竪穴を掘るなどして、なんとか脱出を試みます。その過程で、どうやらそのブロックは、プログラマブルなものではないかということが判明していきます……。
https://www.imdb.com/title/tt31806049/

問題への対応があまりに簡単になされるあたりが、低評価の理由の一部なのだとは思いますが、ブロックの正体とか、脱出へのアプローチとか、それなりに考えて作っていることがわかるのが、個人的には好ましいと思った理由です。というのも、似たようなシチュエーションで、理由や正体や解決を、ひたすら放棄してしまうような作品を観たからです。こちらはフランス映画ですが、『ザ・タワー』(ギヨーム・二クルー監督、2022)というのがそれですね。
https://www.imdb.com/title/tt15152316/

これも得体の知れない闇に外部が覆われてしまって、住民たちは中で右往左往するという状況パニックものなのですが、いつしか人々は、内部の派閥抗争みたいなことに明け暮れるようになっていきます。これってある種の寓意ということなのかもしれませんが、それにしても何が起きたのか、闇の正体は何か、脱出の展望はないのか、いろいろなことが語られずじまいで、観ていてさっぱり面白くありません。

事態の解明を端から放棄しちゃってる、みたいな話、とくに近年のフランス映画で、とりわけ目にするようになってきた気がします。まるで現実の社会的な閉塞感を、再現しているかのようです。たとえば『動物界』(トマ・カイエ監督、2023)とか、『またヴィンセントは襲われる』(ステファン・カスタン監督、2023)とか。前者は、人間が動物にミューテーションしていくという奇病が流行っている世界の中で、青年の自立を描く話。後者は、目を合わせるとなぜか相手が猛り狂って攻撃してくる、という不条理に苛まれる男の話です。
https://www.imdb.com/title/tt16606592/

https://www.imdb.com/title/tt23790924/

前者は、ランティモスの『ロブスター』(2015年)の影響を感じますが、そちらは作品世界の背景が、政策的・人工的に作られた変異の世界だったのに対して、上のフランス映画は、そこを病気という扱いにしてしまい、いたずらにカオスの度合いを高めている印象です。でも結局、発症のメカニズムとかへの言及もなく、青年とその父親が迎える結末も「擬似的な結末」という感じで、必ずしも納得いくものではない気がします。後者についても、納得のいかなさとしては同じような印象で、シャマランの『ハプニング』の影響なのか、最低限触れるべき、あるいは描くべき、必要な描写が十分に果たされていない、という宙吊り感だけがあとに残ります。

うーん。「その宙吊り感こそが、描き手側の意図だった」、とでもいうのでしょうかねえ。でも、仮にそうだったとしても、それはもうとっくに使い古されていると思うのですけれど(苦笑)。もうひと工夫、あっていいように思われます。さらにもっと練り込まれた、面白い作品を観たいなあ、と思う今日この頃です(苦笑)。

ポパーのヒストリシズム批判

少し前に取り上げたポパーの『開かれた社会とその敵』。その後残りの3冊(1巻の下、2巻の上下)の本文をざっと読んでみました。プラトンの哲人皇帝の理想が、継承に際して制度的なものに頼らざるを得ず、凡庸な人物を選んでしまいという弱点を抱えている話とか、プラトンの国制論が、結局「オレサマこそが理想的な皇帝候補だ」みたいに読めてしまう話とかも興味深いのですが(1巻の下)、神話をベースとした堕落論としてのプラトンのヒストリシズムが、アリストテレスにいたって目的論的に組み替えられ、はるか後代にヘーゲルのもとで、三段論法的に練り直され(これ、プロイセンの国家を称揚する意図がありあり、とか)、さらにそれが経済をベースにするかたちでマルクスに受け継がれていく、という2巻の話の流れも、とても興味深いものでした。
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なるほど、ポパーが一貫して執拗に批判するのはヒストリシズム(歴史主義)なのですね。で、これはヘーゲルの遺産として、ポパーの時代も、そしてわたしたちの現代においても、息を吹き返しているのは明らかなようです(吹き返すというか、息が止まることはなかったというか)。

ヒストリシズムは結局、ある種の神話にすぎず、合理的な思考の対局にあるものでしかない、それに立脚して学問的な論を構築しようとするのは、とどのつまり、非合理的なものが猛威をふるうような状態、神秘主義に行き着くだけで、理性が合理的な世界を実現することを妨げてしまいかねない、というのがその基本的な見方です。ポパーは、現代のヒストリシズムは陰謀論の変化形だといいます。「陰謀論は(神が世界を支配し動かしているという)宗教的迷信が世俗化したことの典型的な結果である」というのですね。

学生時代とかに、少しだけマルクスをかじるのが(マルクスへの評価はともかく)割と普通だった年代の者としては、マルクスが掲げた革命の思想が、政治的なプログラム(ポパーの言い方では社会工学)と受け止めるべきなのか、それとも歴史法則的な必然と捉えるべきなのか、今ひとつ曖昧で釈然としなかったような印象を受けたものですが、ポパーに言わせると、それはまさしくヒストリシズムなのであり、いわば宿命論的・決定論的なものでもあって、社会工学のようなピースミールでの改善(この漸進主義を、ポパーは推奨しています)を説くものではなかった、と断罪されています。なんだか、そのあたりは妙に納得、という感じがしたりもします。

でも、このところしきりに思うのは、どんな論考にも必ずアラがあるものだ、ということです。ポパーにしてもまた、何か見えていなかったところがあるかもしれない、と思うわけです。

必ずあるアラ、という話の最近の例では、たとえばウェーバーの社会学もありますね。プロテスタンティズムの禁欲的な倫理が近代初期の資本主義をもたらしたといった有名な話も、実は制度・組織の構築という面について、その精神性がどう関与していったのかは不問にされている、という話があるようです(「ララビアータ」というブログを参照のこと(http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52641857.html))。ウェーバーも学生のときに読んだきりですが、たしかにそんな話には触れられていなかったような気がします(と言うか、単純に思い出せない(苦笑))。

また最近の本で言えば、数年前に流行ったトマ・ピケティの『21世紀の資本』についても、議論の前提となる富の格差の増大という部分への反論が出て来ているそうですね。スウェーデンのヴァルデンストロムという経済学者が批判しているのだとか。ダイヤモンド・オンラインに記事として掲載されています(https://diamond.jp/articles/-/374773)。

でも、これぞ健全な状態と言うこともできそうです。議論がかならずや反論を呼び、積み重なって新たな局面を迎えていくところこそ、学問の最もダイナミックで興味深いところなのですよね。ポパー自身が、そのことを記しています。

わたくしの考えでは、理論の反証可能性、すなわち、理論を反駁する可能性こそが、理論のテストを可能にし、またそれによって理論の科学的性格が規定されるのである。そして、理論のテストとは、なんであれ、理論の助けによって導出された予測を反証しようとする試みであるという事実こそ、科学的方法論にとっての鍵なのである。

ポパーについても、何か有意義な反論ができないか考えてみたくなってきます。

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「ポーカー・フェイス」賛

小説でもドラマとかでも、ミステリーものは基本的に嫌いではないのですが、10年くらい前から人気だという北欧系ミステリーは、なにやら暗ーい話が多くて、ときに食傷気味になったりもします。もっと軽妙でお気軽なコメディ系ミステリーが観たい、なんて思ったりするわけです。で、そういう需要に適うシリーズとして、個人的に気に入っているものの1つが『ポーカー・フェイス』です。日本ではu-nextで、最新のシーズン2まで配信されています。https://www.imdb.com/title/tt14269590/

ナターシャ・リオン(ほとんど知らない女優さんでした)演じる主人公のチャーリーは、本能的に、他人がついた嘘を見分けるという特殊能力があるという設定です。彼女のこの特殊能力を悪用しようとしたマフィアの逆恨みで追われる身となってしまうのですが、一方でこの特集能力ゆえに、犯罪を嗅ぎつけ、その解決に一役買うことにもなリます。こうして、追われる身ながらも、道中で起きる様々な事件を解決していく、というシリーズです(基本的に1話完結の単発系ミステリーですね)。

この「嘘がわかる」というのはなかなか見事な、絶妙な設定です。嘘によって犯人の目星もつくし、動機やトリックも推測できたりするわけですからね。謎を解くための捜索範囲の絞り込みも容易になりますし、犯人との掛け合いの妙にもなりえます。単発系ミステリーにとてもフィットする設定なのですね。

全編に散りばめられているギャグも、なかなかよくできていておかしいし。プロットも実に秀逸ですし、弱者に寄り添うチャーリーのキャラクターも、とてもいい感じです。というわけで、これはポップでライトなミステリーとして、大いにおすすめしたいシリーズ。コロンボみたく続いてほしいなあ、と思いますね。

ラロ・シフリン、そしてMI

先週のNHK FMの「ジャズ・トゥナイト」で、ラロ・シフリンが特集されていました。しかも追悼ということで。6月に亡くなっていたんですねえ。うかつにも知らなかった。シフリンといえば、『スパイ大作戦(ミッション・インポッシブル)』や『燃えよドラゴン』のテーマ曲など、映画音楽などで知られる作曲・編曲家で、もとはクラシック畑出身のジャズ・ピアニスト。

FMの聞き逃し配信はわずか1週間(いつも思うけど、ケチくさい😅)なので、もうそろそろ聞き返しできなくなりますが、パーソナリティの大友良英氏は、1966年のスパイ大作戦のオリジナル録音(モノラル)には、ベースにレイ・ブラウン、ドラムにシェリー・マンといった大御所たちが入っていたのではないかと推測しています。当時のシフリンは、ジャズ演奏の仲間を積極的に入れて面白い演奏をやっていたとのことで、それもありかも、という話でした。でも、意外に当時のそういう情報というのは、どこにも記されていないのですね。

↓ The best of MIsson: impossible
https://musicbrainz.org/release-group/09ccefa6-ea20-3080-b426-47ad72c1ae21

時代から遠ざかって行くほど、そういう細かな、何気ない情報というのは、いっそう重要になっていったりするわけですが、失われる可能性もまた高まっていく……。事象がもつはかなさ、そして価値は、こうしてますます貴重なものになっていくのだなあ、と。当たり前のことですが。

↓ Lalo Shifrin & Friends
https://musicbrainz.org/release-group/e2ee5bb8-7d23-46fd-a875-21a03ea8ae39

シフリンが音楽を手掛けた映画としては、ほかにもポール・ニューマンの名作『暴力脱獄』とか、クリント・イーストウッドの『ダーティーハリー』のシリーズ、『悪魔の棲む家』、先に亡くなったロバート・レッドフォードの『ブルベイカー』などなど、実にいろいろありますね。テレビ作品も、『スタスキー&ハッチ』なんかがあります。なつかしい!

ミッション・インポッシブルの5拍子のあの旋律は、いまでも使われていますねえ。ちょうど配信で安くなった、トム・クルーズの最新作(ファイナル・レコニング)を観ましたが、なんだかちょっと痛々しい感じが。減圧とか水温とかをナメたりしているのも難ありで、素直に作品世界に入っていけませんでした(苦笑)。いちおう集大成っぽい雰囲気でしたが、これが集大成でいいのかしら、という感じ。

ポパーのプラトン批判

以前から聞きかじっていて、前から読みたいと思いつつ、先延ばしになっていたカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』。まずは第1巻の「プラトンの呪縛」の上巻(小河原誠訳、2023、岩波文庫)を読んでみました。kindle版も出ているのに気がついたので、早速眺めてみた次第です。
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聞いていたとおり、あるいはそれ以上に面白いですね。ヘラクレイトスが世界を流動として捉えた後、プラトンはそこに、なんらかの不動のものを見出そうとして、イデア論を展開するようになります。しかしながら、この大きな基本的スタンスを、国制に関する学問(政治学)に応用する段になると、現実の社会形態を理想国家の劣悪コピーとして捉えることになり、その理想国家に遡及することを是とするような、きわめて保守的な議論が展開せざるをえない、というわけでなのですね。

プラトン中期・後期に位置づけられる『国家』においては、現実社会の不正・腐敗と捉えられる部分をできるかぎり排したかたちで、厳密な階級・役割分担を基礎とする、ある種のかっちりした全体主義を擁立することこそが、その理想になる、とポパーは読み解きます。その上でポパーは、そのスタンスを批判していくという流れになります。

プラトンの全体主義的な議論が、なぜポパーの時代(同書が書かれたのは第二次大戦中でした)まで批判されることがなかったのか。ポパ―は、プラトンを理想化する伝統(偏見、とポパーは言い放ちます)があまりに根強かったからだとしています。それは『国家』の英語翻訳題名である『共和国』にもすでにして現れているのだ、と。本来ならそれは「国制」のような表題であるべきだ、というのです。

プラトンが『国家』で展開する「正義」についての論も、同じく示唆的だといいます。本来ギリシア語で「平等な分配」を意味していた「正義」が、そこでは「最善国家のためになるもの」の意味に置き換えられてしまっていて、支配階級の正しさを前提として、平等に対して敵対的な解釈を導き入れている、といいます。

個人的にプラトンの対話編は、ときに違和感を感じさせたり、話の流れを不自然に誘導しているかのように感じられたりもするのですが、ポパーはまさにそのことにも踏み込んでいます。『国家』のまえがき部分が、ドラマ仕立てによって読者の「批判的考察力を眠りこませるべく仕組まれたもの」なのだと批判します。プラトンは正義をめぐる自身の議論の弱点を知っていて、それを覆い隠す術も心得ていたかのようだ、というのですね。

個人主義に対立するのは集団主義で、エゴイズムに対立するのは博愛主義だとポパーは図式化してみせますが、プラトンは個人主義とエゴイズムを同一視してしまうとも指摘されています。自己の利益の追求を基礎とするような正義は、プラトンとしては認められないということなのでしょう。このようなかたちでのプラトンの読みは、時代を反映した読みなのかもしれませんが、私たちにとってもとても重要なものだな、と改めて思います。プラトンそのものもそうですが、後裔となるプラトン主義者たちの著作も、同じような観点から見返してみるのも面白そうです。