以前から聞きかじっていて、前から読みたいと思いつつ、先延ばしになっていたカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』。まずは第1巻の「プラトンの呪縛」の上巻(小河原誠訳、2023、岩波文庫)を読んでみました。kindle版も出ているのに気がついたので、早速眺めてみた次第です。
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聞いていたとおり、あるいはそれ以上に面白いですね。ヘラクレイトスが世界を流動として捉えた後、プラトンはそこに、なんらかの不動のものを見出そうとして、イデア論を展開するようになります。しかしながら、この大きな基本的スタンスを、国制に関する学問(政治学)に応用する段になると、現実の社会形態を理想国家の劣悪コピーとして捉えることになり、その理想国家に遡及することを是とするような、きわめて保守的な議論が展開せざるをえない、というわけでなのですね。
プラトン中期・後期に位置づけられる『国家』においては、現実社会の不正・腐敗と捉えられる部分をできるかぎり排したかたちで、厳密な階級・役割分担を基礎とする、ある種のかっちりした全体主義を擁立することこそが、その理想になる、とポパーは読み解きます。その上でポパーは、そのスタンスを批判していくという流れになります。
プラトンの全体主義的な議論が、なぜポパーの時代(同書が書かれたのは第二次大戦中でした)まで批判されることがなかったのか。ポパ―は、プラトンを理想化する伝統(偏見、とポパーは言い放ちます)があまりに根強かったからだとしています。それは『国家』の英語翻訳題名である『共和国』にもすでにして現れているのだ、と。本来ならそれは「国制」のような表題であるべきだ、というのです。
プラトンが『国家』で展開する「正義」についての論も、同じく示唆的だといいます。本来ギリシア語で「平等な分配」を意味していた「正義」が、そこでは「最善国家のためになるもの」の意味に置き換えられてしまっていて、支配階級の正しさを前提として、平等に対して敵対的な解釈を導き入れている、といいます。
個人的にプラトンの対話編は、ときに違和感を感じさせたり、話の流れを不自然に誘導しているかのように感じられたりもするのですが、ポパーはまさにそのことにも踏み込んでいます。『国家』のまえがき部分が、ドラマ仕立てによって読者の「批判的考察力を眠りこませるべく仕組まれたもの」なのだと批判します。プラトンは正義をめぐる自身の議論の弱点を知っていて、それを覆い隠す術も心得ていたかのようだ、というのですね。
個人主義に対立するのは集団主義で、エゴイズムに対立するのは博愛主義だとポパーは図式化してみせますが、プラトンは個人主義とエゴイズムを同一視してしまうとも指摘されています。自己の利益の追求を基礎とするような正義は、プラトンとしては認められないということなのでしょう。このようなかたちでのプラトンの読みは、時代を反映した読みなのかもしれませんが、私たちにとってもとても重要なものだな、と改めて思います。プラトンそのものもそうですが、後裔となるプラトン主義者たちの著作も、同じような観点から見返してみるのも面白そうです。