少し前に取り上げたポパーの『開かれた社会とその敵』。その後残りの3冊(1巻の下、2巻の上下)の本文をざっと読んでみました。プラトンの哲人皇帝の理想が、継承に際して制度的なものに頼らざるを得ず、凡庸な人物を選んでしまいという弱点を抱えている話とか、プラトンの国制論が、結局「オレサマこそが理想的な皇帝候補だ」みたいに読めてしまう話とかも興味深いのですが(1巻の下)、神話をベースとした堕落論としてのプラトンのヒストリシズムが、アリストテレスにいたって目的論的に組み替えられ、はるか後代にヘーゲルのもとで、三段論法的に練り直され(これ、プロイセンの国家を称揚する意図がありあり、とか)、さらにそれが経済をベースにするかたちでマルクスに受け継がれていく、という2巻の話の流れも、とても興味深いものでした。
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なるほど、ポパーが一貫して執拗に批判するのはヒストリシズム(歴史主義)なのですね。で、これはヘーゲルの遺産として、ポパーの時代も、そしてわたしたちの現代においても、息を吹き返しているのは明らかなようです(吹き返すというか、息が止まることはなかったというか)。
ヒストリシズムは結局、ある種の神話にすぎず、合理的な思考の対局にあるものでしかない、それに立脚して学問的な論を構築しようとするのは、とどのつまり、非合理的なものが猛威をふるうような状態、神秘主義に行き着くだけで、理性が合理的な世界を実現することを妨げてしまいかねない、というのがその基本的な見方です。ポパーは、現代のヒストリシズムは陰謀論の変化形だといいます。「陰謀論は(神が世界を支配し動かしているという)宗教的迷信が世俗化したことの典型的な結果である」というのですね。
学生時代とかに、少しだけマルクスをかじるのが(マルクスへの評価はともかく)割と普通だった年代の者としては、マルクスが掲げた革命の思想が、政治的なプログラム(ポパーの言い方では社会工学)と受け止めるべきなのか、それとも歴史法則的な必然と捉えるべきなのか、今ひとつ曖昧で釈然としなかったような印象を受けたものですが、ポパーに言わせると、それはまさしくヒストリシズムなのであり、いわば宿命論的・決定論的なものでもあって、社会工学のようなピースミールでの改善(この漸進主義を、ポパーは推奨しています)を説くものではなかった、と断罪されています。なんだか、そのあたりは妙に納得、という感じがしたりもします。
でも、このところしきりに思うのは、どんな論考にも必ずアラがあるものだ、ということです。ポパーにしてもまた、何か見えていなかったところがあるかもしれない、と思うわけです。
必ずあるアラ、という話の最近の例では、たとえばウェーバーの社会学もありますね。プロテスタンティズムの禁欲的な倫理が近代初期の資本主義をもたらしたといった有名な話も、実は制度・組織の構築という面について、その精神性がどう関与していったのかは不問にされている、という話があるようです(「ララビアータ」というブログを参照のこと(http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52641857.html))。ウェーバーも学生のときに読んだきりですが、たしかにそんな話には触れられていなかったような気がします(と言うか、単純に思い出せない(苦笑))。
また最近の本で言えば、数年前に流行ったトマ・ピケティの『21世紀の資本』についても、議論の前提となる富の格差の増大という部分への反論が出て来ているそうですね。スウェーデンのヴァルデンストロムという経済学者が批判しているのだとか。ダイヤモンド・オンラインに記事として掲載されています(https://diamond.jp/articles/-/374773)。
でも、これぞ健全な状態と言うこともできそうです。議論がかならずや反論を呼び、積み重なって新たな局面を迎えていくところこそ、学問の最もダイナミックで興味深いところなのですよね。ポパー自身が、そのことを記しています。
わたくしの考えでは、理論の反証可能性、すなわち、理論を反駁する可能性こそが、理論のテストを可能にし、またそれによって理論の科学的性格が規定されるのである。そして、理論のテストとは、なんであれ、理論の助けによって導出された予測を反証しようとする試みであるという事実こそ、科学的方法論にとっての鍵なのである。
ポパーについても、何か有意義な反論ができないか考えてみたくなってきます。