相変わらず、ちびちび読んでいるエピクテトスの『語録』。第四巻の第一章は、自由についての議論でした。
エピクテトスの考える自由とは基本的に、意志に反した「強制・妨げ」のない状態のことを言うとされます。強制されたり妨げられたりするのは、奴隷の状態なのだ、というわけですね。奴隷ではない状態とはつまり、自分のもとにないものに執着をもたないことを言うのだ、と説明されます。自分のもとにない、とは、自分が実際に持っているか持っていないかに関係なく、自分の制御下にないものを言う、と。ちょっと極論的でもありますが、自身の身体、四肢、財産なども、「自分のもとにはない」ものだとされます。
したがって自由にいたる道とは、事物への執着を捨てること、自分のもとにないものへのこだわりを絶とうとすることにほかなりません。僭主によって不本意なことを強要されたとしても、おいそれと従ってはならず、自身の道徳的な志向性(それは神々から与えられた内的なものであり、自分のもとにある唯一無二のものとされています)にのみ忠実であれ、ほかのあらゆる執着(権力への嗜好や財産の希求などなど)から自由であれ、とエピクテトスは説いています。
逆のここから推察されるのは、自分のもとにないものに対しては、とてもゆるい関係性を結ぶのでよしとすべし、という実践的テーゼかもしれません。対象に固着しない、固執しない。それでいてゆるく連帯しつつ、必要があれば対象を活用できるようにする。自分の身体すらをも、そのようなものとして認識する。なんだか、ここで描き出されるゆるい関係性の世界観・世界像は、今風に解釈するところの、ラトゥールなどが提唱してきたアクターネットワーク理論などを、どこか思わせる気がします。そういう観点から見直すと、エピクテトスもまた、従来の人生訓としての読みとはまた違ったふうに見えてきそうで、改めてとても興味深いですね。