佐々木隆治『マルクス 資本論 第3巻』という一種の逐次解説本を、このところ読んでいます。マルクスの資本論は普通、商品や余剰価値についての原理・本質論が展開する第一巻がなんといっても有名すぎて、エンゲルスがまとめたという第二巻や第三巻は、結構ノーマークだったりするのではないでしょうか。個人的にもそうなのですけど(笑)(なにしろ経済方面はとりわけカジュアルな読者なので)、でもたとえばこの第三巻は、利潤率の成立などの、いかにも現実的な経済学的な話が展開するようで、その意味ではちょっと興味深いものがあります。
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まだ前半ですが、この解説本の記述は非常にとっつきやすくて好感が持てます。一貫して取り上げられているテーマは、いわゆる物象論で、本質論で成立した生産物の価値が、現実世界においていかに転倒し、市場価値、市場価格として成立するかという問題ですね。なるほど、本質論にとどまっていた理論が、現実世界のほうへと接近していくという図式になっているわけですが、とはいえ、やはり理論的考察であることは変わらず、現実の複雑な構図をそのまま扱うわけではく、あくまで抽象化された「現象」を、理論でもってまとめ上げるというスタンスになっている印象です。
本質論と現象論とを区別しているとはいうものの、たとえば同書が「マルクス均衡」と呼ぶ、商品需要と商品供給の均衡状態を、社会的な総労働の均衡的配分として見るという考え方(つまり、仮にいずれかの業種に不均衡があっても、それを解消するために業種間で労働力が移動することにより、労働の総量としては均衡が図られるということ、でしょうかね?)などは、すでにして抽象化されたモデルにすぎません。現実の問題としては、業種への嗜好性その他もろもろの要因によって、機械的に労働が社会的な均衡をなす方向に向かうとは限らないと思われます。そのモデルは、本質論よりは現実寄りの、一段下(?)の抽象レベルの事象を説明しているにすぎないのでは?
マルクスがどのあたりの現実のレベルまでを考察の対象に据えようとしていたのか、寡聞にして知らないのですが、このあたりを突き詰めていくと、なにやら本質と現象の認識をめぐる、哲学的な問題をも召喚しそうで、読む側としてもちょっと身構えてしまいそうです。
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ちょうど、ナフサの問題をめぐり、政府見解が「量は足りている」としつつ、現実問題としての滞りについて「流通の目詰まり」と表現している話が、構図としては似ているかもと思ったりしました。「流通の目詰まり」というのもかなり大まかな、現実的な細やかさを捨象した表現で、この物言いのレベルで現実を語るのは、ちょっと大雑把すぎるのでは、と思いますね。政治はもっと細やかな現実にこそ対応できる・対応すべきものであってほしいのですけどねえ。