合理的判断

カナダの哲学者ジョセフ・ヒースによる、『啓蒙思想2.0』(栗原百代訳、ハヤカワ文庫NF、2022)を読み始めたところです。昔とはちがって、感情よりも下位に貶められている理性を巡って、その立て直しに向けた考察を展開しようという本のようですね。
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これの冒頭に出てくる「結婚問題」という論理的思考力を見るクイズが面白かったので、メモっておきましょう。「ビルはナンシーを見ていて、ナンシーはグレッグを見ている。ビルは結婚していて、グレッグは結婚していない。このとき、結婚している人が結婚していない人を見ている」は正しいか? A:正しい、B:正しくない、C:どちらとも決められない」。

著者も言うように、ナンシーが結婚しているかどうかは言及されていないので、ちょっと目にはCかなと思ってしまいますが、これは不正解(私もご多分にもれず、そうでした(苦笑))。正解はAなんですね。今問題になっているのは、「結婚している人が結婚していない人を見る」という文の是非であって、「誰が」が問われてはいません。ナンシーも、結婚しているか、していないかの二つに一つなのは間違いなく、結婚しているのであれば、ナンシーがグレッグを見ているので、問題の文は正しいですし、結婚していないのであれば、ビルがナンシーを見ているので、この場合でも問題の文は正しいことになる、というわけです。うーん、やられましたね。

著者はこの例を、合理的な観点からは明白だが、直感的ではないために初見では間違いやすいと指摘しています。合理と直感とが別々の種類の認知プロセスだ、ということを示すために出している例ですが、著者はここで、時間のかかる面倒な合理的判断の重要性へと、話をもっていこうとしています。というわけで、しばらくそうした合理についての考察に、付き合うことになりそうです。

「GO WEST」と言えば…

サッカーのワールドカップの時期になっています。この時期は、いろいろな場所で応援ソングのようなものがかかったりしますよね。近所のスーパーでさえ、そんな選曲の音楽が流れていました。定番チャントシリーズみたいな。で、この日、定番中の定番「アイーダ」に続いてかかったのが、アレンジされた「go west」でした。

もとはヴィレッジ・ピープルのディスコサウンドですね(79年)。90年代にペット・ショップ・ボーイズのカバーがあり、人気を博しました。その後2006年のドイツのワールドカップで使われて一気に広がったのだとか。
https://youtu.be/LNBjMRvOB5M?si=skMKlXLvigpEP2EX

でも個人的に、これが実に巧みに何度も使われていたものとして思い出されるのは、ジャ・ジャンクー監督の2015年の映画『山河ノスタルジア』だったりします!
https://www.imdb.com/title/tt3740778/

はっきりいって映画の内容はあんまり覚えていないのですが、最初とか、最後とかに、若い時から初老になるまでの主人公の女性を演じていた女優さんが、この曲に合わせて、いきなり軽快に踊りだすというところが、とても印象的というか、インパクトあったのですよね。そんなわけで、go westと言えば、個人的には『山河ノスタルジア』一択です。

マジックリアリズム!

マジックリアリズム(魔術的リアリズム)というと、日常的世界の描写に、非日常的なものが突然フッと差し挟まれる、という例の描写ですね。ラテンアメリカ文学などで多用されていました。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とかですね。ものや人体が突然浮遊したりする描写が代表的で、Netflixで配信していたドラマ版『百年の孤独』でも、いろいろ浮んだりしていましたね(笑)。でもまあ、マジックリアリズムってそれだけじゃないよなあ、とは思います。

今やいろいろなところで使われているらしいこの技法ですが、先日wowowオンデマンドで観たインド映画『私たちが光と想うすべて』(2024年、バヤル・カバーリヤー監督)では、「え?」と思う使われ方をしていました。これ、ちょっと斬新だったかもしれません。
https://www.imdb.com/title/tt32086077/

後半のとても重要なエピソードとして、主人公の看護師の女性が、村人が見守る中、海岸で溺れていた(?)男性を救助します。担ぎ込まれた民家の老婆は、二人が夫婦だと勘違いするのですが、その直後、二人きりになったところで、ドイツに出稼ぎに行って帰ってこない夫がその男性に乗りうつったかのように、二人は夫婦としての最後の(?)会話を交わすのです。

とっかかりは少し違和感を覚えますが、マジックリアリズムなんだろうな、と思って観ていると、なんかいいんですよね。これ。遠くにいるはずの夫に対する、女性側からの内面の吐露として、とてもいい場面設計になっていたと思います。おそるべしマジックリアリズム。可能性はまだまだ広がっていそうです。もっとも、緻密に計算した場面設計でないと、観る側が理解できなくなってしまうので、ぎりぎり紙一重のところが勝負なのかも。

プラトン的自然哲学?

大部の紙の本はもうあまり読みたくないのですが、そうも言っていられないこともあります。もはや研究とかには無縁(目がしょぼいので、大量の文書を読むのは無理)ですが、なにかこう、大きな刺激を受けたりしたときなどには、やはり扱われているおおもとの本とか、見てみたい衝動に駆られます(習性みたいなものでしょうかね?苦笑)。……というわけで、シェリング・ルネサンスに惹かれて、イアン・ハミルトン・グラントの『シェリング以後の自然哲学』(浅沼光樹訳、人文書院、2023)を読み始めてみました。まだざっと三分の一くらいです。
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グラントは同書で、シェリングの初期の著作だった『ティマイオス注解』を足がかりとし、シェリングが自然学の刷新を試みているという見立てを示すわけですが、それは一言でいうと、「プラトン的な」(プラトン主義的ではなく)自然哲学だというのですね。近代的な哲学の礎をなすとされるのはカントですが、そのおおもとはアリストテレスだとされたりもしますが、自然学に限ってはいても、その系譜をそっくり批判するのが、シェリングの自然哲学なのだというのです。

アリストテレスからカントにいたる系譜の何が問題なのかというと、そこでは有機的自然と無機的自然が分断されていて、自然学が物体論に限定されてしまっていることだといいます。彼らが扱う自然は、形相的な意味の自然にすぎず、述語付け可能な本質に過ぎない、と。あるいは、(あえてアナクロニズム的な言い方になっていますが)現象学化した自然学なのだ、というわけですね。それに対してシェリングの唱えるものは、両者を分断しない、「全」の自然学だとされています。非物体をも排除しない自然学、ということですが、それはどういったものになるのでしょうか。

どうやらそれは、『ティマイオス』でイデアの受け皿とされているコーラ(場所、器の意)をも扱う自然学、ということのようです。それはとりもなおさず、力能あるいは生成の自然学なのだ、と。質料(コーラ)とは、要するに自然がイデアに与える力能のことであり、それについての考察は、いわば質料の生成論ということになるのですね。

これ、要は、無秩序な世界から秩序がどう出現するのかという問題を、ある種、一元論的に考えるというスタンス、ということになりそうですが、気になるのは、どうもシェリングにしても、それについては成功してはいないみたい(?)、という点でしょうか。続きの部分を読んでみないとわかりませんが、考察が頓挫するなら頓挫するで、いかにしてそうなってしまうのかを、辿ってみないといけません。