プラトン的自然哲学?

大部の紙の本はもうあまり読みたくないのですが、そうも言っていられないこともあります。もはや研究とかには無縁(目がしょぼいので、大量の文書を読むのは無理)ですが、なにかこう、大きな刺激を受けたりしたときなどには、やはり扱われているおおもとの本とか、見てみたい衝動に駆られます(習性みたいなものでしょうかね?苦笑)。……というわけで、シェリング・ルネサンスに惹かれて、イアン・ハミルトン・グラントの『シェリング以後の自然哲学』(浅沼光樹訳、人文書院、2023)を読み始めてみました。まだざっと三分の一くらいです。
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グラントは同書で、シェリングの初期の著作だった『ティマイオス注解』を足がかりとし、シェリングが自然学の刷新を試みているという見立てを示すわけですが、それは一言でいうと、「プラトン的な」(プラトン主義的ではなく)自然哲学だというのですね。近代的な哲学の礎をなすとされるのはカントですが、そのおおもとはアリストテレスだとされたりもしますが、自然学に限ってはいても、その系譜をそっくり批判するのが、シェリングの自然哲学なのだというのです。

アリストテレスからカントにいたる系譜の何が問題なのかというと、そこでは有機的自然と無機的自然が分断されていて、自然学が物体論に限定されてしまっていることだといいます。彼らが扱う自然は、形相的な意味の自然にすぎず、述語付け可能な本質に過ぎない、と。あるいは、(あえてアナクロニズム的な言い方になっていますが)現象学化した自然学なのだ、というわけですね。それに対してシェリングの唱えるものは、両者を分断しない、「全」の自然学だとされています。非物体をも排除しない自然学、ということですが、それはどういったものになるのでしょうか。

どうやらそれは、『ティマイオス』でイデアの受け皿とされているコーラ(場所、器の意)をも扱う自然学、ということのようです。それはとりもなおさず、力能あるいは生成の自然学なのだ、と。質料(コーラ)とは、要するに自然がイデアに与える力能のことであり、それについての考察は、いわば質料の生成論ということになるのですね。

これ、要は、無秩序な世界から秩序がどう出現するのかという問題を、ある種、一元論的に考えるというスタンス、ということになりそうですが、気になるのは、どうもシェリングにしても、それについては成功してはいないみたい(?)、という点でしょうか。続きの部分を読んでみないとわかりませんが、考察が頓挫するなら頓挫するで、いかにしてそうなってしまうのかを、辿ってみないといけません。