日本では秋に公開ということで、空間系ホラー映画らしい『バックルームズ』に期待しています。で、これを観るための準備ということで、『リミナルスペース――新しい恐怖の美学』(Alt236、佐野ゆか訳、フィルムアート社、2025)に目を通しました。
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人の姿が見えず、どこかに至る途上の限定的な、それでいてどこまで(いつまで)続くのかわからないような移行の空間。それがリミナルスペースだというわけで、一種の「非場所」とされています。それだけに、そこに足を踏み込むことも、あるいは単にその光景を目にすることだけでも、どこか落ち着かない気分にさせられます。一種の迷子感というか。
この本は、そうしたリミナルスペースの写真集のようでもあり、どこか不穏な建築物から始まって、絵画、ネット上のアート・写真系の諸作品、ビデオゲームや映画などの画面などに次々に言及しながら、その独特で不穏な「美学」を、ある意味「体系的」に紹介していきます。うーん、いいですね。個人的にこういう絵や写真は大好きな部類です(笑)。
『バックルームズ』のもとになった動画の話なども、もちろん言及されていますが(第3章)、その後に出てくる『紙葉の家』(マーク・Z・ダニエレブスキー)という書籍の話が、個人的にはとても興味深いです。ある一家が体験する奇妙な出来事について、ある老人が書いた学術論文に、ある刺青師が注釈をほどこす……というなんともいえない入れ子構造なのだとか。もとの一家の体験する出来事というのも、家の寸法のズレを探っていくところから、家の下に巨大な空間が開かれていることを発見する、みたいな話らしく、それが迷宮のような文章で表されているのだとか。なんとも面白そうじゃないですか。そのうち手に入れたいところです。
でも、考えてみると、こうした「リミナル」な、どこへ通じてるかすぐにはわからない不安な心的イメージというのを、なにげなく読んでいる本の中にも、ときおり見出すことができるなあ、と思い至ります。というか、喚起されるというか。たとえば永井均の「哲学探求」シリーズなども、ある意味ではそういう本かもしれません。春くらいに『世界の独在論的存在構造――哲学探求2』を読んで、そこから遡って『存在と時間――哲学探求1』を読んでみたのですが、「人称と時制をめぐる無内包の内包」という議論を読むたびに、どこか薄暗い駐車場みたいな場所から、鉄パイプを組んだような階段が突き出ていて、その先に何があるのか皆目わからない、みたいなイメージが執拗に浮かんできたりしました(苦笑)。
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外側から限定することのできない「現在」や「私」といったものは、それ自体移行的な、すなわちリミナルなものと言うこともできるのかもしれません。移行的?だとするとそれはどこに向かうのでしょうね。ひたすら移行するだけで、行き着く先も定かではない、みたいな?うーん、リミナルなものの魅力であったり恐怖であったりするものは、案外そういう一人ひとつの「私」そのものに帰着するのかもしれない、なんて思えてきたりもします。