前回の投稿で、今ここに無内包なものとしてある「私」も、どこかリミナルなものかも、とおいうことを記しておきましたが、リミナルと言うからには、どこかに通じている途中経過的な意味合いも含まれていなくてはなりません。では、その向かう先はどこなのか。でもこれ、実はとてもシンプルな問いにすぎないのかもしれません。
そう思えたのは、高橋源一郎の『ぼくたちはどう老いるか』(朝日新聞出版、2025)に目を通したから。老いの問題を小説家がどうさばくのかと思っていたら、なんと、ある種の注釈書みたいになっていました。
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前半は哲学者の鶴見俊輔が著した『もうろく貼』(2010)についての著者のコメンタリー。あらゆる状況がいつしか肯定されていく、老いによる変化・変質を、高橋氏はダンテ『神曲』に描かれた「煉獄」のようなものとして(罪を認め、清められ、許される段階として)、「もうろく」に重ね合わせています。なかなか面白い読み方です。
後半は家族から見た、第三者視点からの「老い」ということで、吉本隆明の長女、ハルノ宵子『隆明だもの』(2023)や、有吉佐和子『恍惚の人』(1972)、私小説の作家、耕治人の短編小説、谷川俊太郎の詩などが取り上げられています。どれもが老いと死のまわりをめぐる、味わい深い考察・言及になっています。
若いうちはどこか観念的なものだったり、恐怖の対象だったりした「老い」や「死」ですが、年齢が進むにつれて、観念や恐怖としては薄らいで行くのかもしれません。そしてその無内包な自分自身が味わう、どこか振動のような、わずかな(微かな)動きこそが、愛おしいものになっていくのかもしれません。高橋源一郎はこう記しています。
ぼくが、ぼく自身の内側をいくら覗いて見ても、そこに確固たる「自分」は見当たらない。もやもや渦巻く、不定形な流動体に、ことばを投げ込む。すると、ささやかな反応がある。なにかしら意味ありげな反応が。それを、愚かにも、ぼくたちは「自分」であると思いこむのである。- location 3421
“自分の中にはなにもないとしても、自分の中が仮に空虚であったとしても、そのことに絶望せず、世界を呪わず、「役割」をまっとうせよ、と鶴見さんはいうのである。「にもかかわらず」の転調を、僕は美しいと思う。- location 3443”