「現象学系」カテゴリーアーカイブ

老いの現象学?

カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論――破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020)を読む。小著ではあるけれども、マラブーがずっとこだわってきた可塑性(外的変化を取り込んで内面化するという作用)についての、一つの到達点・境地なのかもしれない(原書は2009年刊)。同書で問題になっているのも、やはり認知症などで人格が一変してしまう人間主体の変貌そのもの。圧巻なのが、三章め以降での「老い」をめぐる考察の数々。通念的には、「老いは忍び寄る」と表現されるように、漸進的にいろいろな部位が衰えていくというのが一般的だが、破壊的可塑性という偶発事を考察するマラブーは、老いにはもっと瞬発的・突発的な、一気に変容する契機もあることを指摘してみせる。そうした場合、自然の衰えのプロセスと思いがけない出来事との境界は決定不能になってしまう、と。

瞬時の老化は、あらゆる心的体験・心的記憶が保持されるとするフロイトの持続的な考え方に、疑問をつきつける。通常のゆるやかな形成を意味する一般的な可塑性に対して、事故などによる損傷を破壊的可塑性と呼ぶマラブーは、老化がこの後者、つまりはひとつの損傷であると考えてみようと提唱する。そうすることで、老化現象をめぐる議論の全体的布置もまた大きく変容しうる。死もまた、そうした破壊的可塑性によって生まれるものなのだとしたら……。人が抑圧し、内奥では肯定しつつもふるまいとしては一貫して否定しつづける「否認」とは別の、端的な否定性、いっさいの肯定性をそぎ落とされた「否定的可能態」がありうるとしたら……。哲学の考察対象にこれまで昇ってこなかったそうした問題系(マラブーが老化についての活写としてプルーストやデュラスなどを挙げているように、それらもまた文学においてむしろ先取りされているのかもしれない)が、薄明かりの中で立ち上がることになるとしたら?

応酬へ?

前回取り上げた『<現在>という謎』(森田邦久編、勁草書房、2019)には、物理学の側から哲学への期待(もしくは苦言?)として、「新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を捉える新しい言語や概念体系を作ってくれる」(p,161)ことが要請されている。哲学の使命というものはそれだけではないだろうけれど、もちろんこれも確かに重要な一側面ではある。しかしながら今や、そうした新しい学知のための言葉や概念は、その学知の出身者にこそ委ねられていくのだろうか。いやしかし……なんてことを思うのは、関連書としてカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019)を見てみたから。ロヴェッリは1956年生まれの著名な理論物理学者で、この本でもちょっとだけ触れられるループ量子重力理論の提唱者。そうした先端的な学者が一般読者のために著したのが同書とのこと。

原題は「L’ordine del tempo(時間の順序)」。もとになっているのは古代ギリシアのアナクシマンドロスの言葉で、ほかにも同書には、アリストテレスやデカルトなどはもちろん、哲学史家でなければ言及しないような史的な著者たちまで(たとえばセビリアのイシドルスとか、ベーダ・ウェラビリスとか、マイモニデスとかその他いろいろ)言及されたりして、その博学ぶりをいかんなく発揮している。

同書の基本的な柱となっているのは、相対性理論が示したように、時間というものは相対的なものでしかなく、そもそも実体としてあるのではない(世界そのものからして実体で構成されているのではない)こと、時間は変化を可視化したものにすぎず、そうした変化が時間の矢として扱われるのは、熱量が絡む場合に限られること、熱量の変化、すなわちエントロピーこそが、運動を、すなわち変化を(それすら近似的・統計的な記述にすぎないとされるが)現出させていることなどなど。すべてにおいて視点と記述(語法)こそが問題なのだ、と喝破される。物理学において時間は、外的な性質として扱われるのに対して、哲学が調べようとするはあくまでその内的な性質にとどまることが指摘されてもいる。そうであるなら、両者の意思疎通がそもそもうまくいくわけがない、という気もする……。

しかしこの時間の内的な性質の記述というのも、ときに興味深い問題を提起する。これまた関連書として見たものだけれど、青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書、2019)では、たとえば意志による判断がいつ下されるのかといった問題に絡んで、神経学的な実験が紹介されている。二つの写真を見せてどちらかを選ばせる(ボタンを押させる)実験で、その結果、脳の反応は、意志的な写真の選択にわずかに先んじたりすることが明らかになったのだという。ではそこから、意思をもつことに対応する心理現象というものはないかもしれないという仮説が成り立つのだろうか。意志の自覚は、つねに後づけとしてなされるものなのか。さらにチョイス・ブラインドなる実験も言及されている。被験者に写真などを選ばせ、それをすり替えて説明を求めると、多くの場合、すり替えに気づきもせず、ときには自分が選択したこととして理由を述べることもあるという現象だ。選択の理由もすべて後づけでしかないのか。

著者はどちらに対しても、哲学の側からの批判を加えている。前者に対しては、そこで示された脳の反応が、選択(ボタンを押すという行為)に関連している確率は6割程度しかなく(あらかじめボタンを押すために身構える、予測している、といった反応が、結果に出ていたりするわけだ)、意志の自覚より前に脳が決断していること確証にはならないとしている。後者に対しては、日常的な「本気の」選択であれば関係するはずのリスク評価などが、介在していない特殊な実験にすぎない、と。このように、批判的な視座をもって他の学知を眺めることも、哲学に求められるべきスタンスであることは確かだろう。では上で言われているような、物理学の示す時間の外的性質に、哲学はどう批判を加えうるだろうか?そもそもそれは可能だろうか?

普遍と個物再び

プルタルコスの『モラリア』第72論文、対話篇の「一般概念について―ーストア派への反論」(ちなみにLes Belles Lettres版で再読中)に、「全体」をめぐるストア派の言説をあげつらう箇所(第30章)がある。この対話篇の登場人物によれば、ストア派の論者たちは、実在しないのに「何かである」と言える事象は多々あり、その最たるものが「全体」である、と述べているという。「無限の空虚で世界の外にあることから全体は物体でも非物体でもない。したがって全体は実在しない。よって全体は働きかけもしないし、働きかけを受けることもなく、場所にすらない。場所にないならば、動・不動のいずれでもない。重さもない」と彼らはいうのだそうだ。するとそこから「物体でないものがその部分に物体を含み、非在のものがその部分に存在を含み、重さのないもののがその部分に重さや軽さをもつものを含む」ことになって、一般概念にこれほど反する観念はほかに思いつかない、とこの登場人物は宣言する。

けれどもこのストア派の側の議論のほうがむしろ面白い気がする。その議論では続けて、全体は「それを超えるものはないので何かの部分ではないし、総体でもない。総体は秩序だったのものの述語となるものだが、全体は秩序だってはいない。全体には何らかの原因があるわけでもないし、何かの原因になるわけでもない」とされる。したがって全体は、通常ならば「無」の述語となるすべての述語を取ることになる、と。この対話篇の登場人物たちは、ストア派は残念だという感じで嘆くのだが、いや、実は残念なのはこの登場人物らのほうではないか、という気がしないでもない。ストア派の言説をより深く読み込んでいけば、かえってそうした非在の概念の分析から、物体の実体性、実在性、あるいは一般概念の存立根拠のようなものも導けるのではないか、と。

そんなことを改めて思うのは、田口茂・西郷甲矢人『<現実>とは何か――数学・哲学から始まる世界像の転換』(筑摩書房、2019)を読んでみたからかもしれない。数学者と哲学者との対話を通じて練り上げられた議論というだけで、すでにして刺激的な一冊。しかもそれが実体などの、存在論的な議論に向かうとなれば、これはもう、良い意味で見過ごすわけにはいかない。そしてなんといっても、同書が企てているのがまさに一般概念・通念の転回だからでもある。

同書が問うているキーとなる問題は次のようなものだ。普遍的なものの認識が成立するには、必ずやまずは特定の個別的なものから出発しなければならない。法則が成立するには必ず個別の事象・現象が必要だ。けれども後者から前者が導かれるプロセスは必ずしも意識されない。その「変換」が成立するためには個別の事象と「同じ」他の事象が見いだされ、「置き換え」の可能性が開かれれなくてはならない。ではそこでいう「同じ」とはどういうことか。置き換えの可能性は何が担保するのか。著者たちは量子論とそこから導かれる統計的法則、そして圏論を引き合いに、置き換えの可能性や同じであると見なす根拠が、実は設定された観察の条件に依存すること、したがって法則は「ある」というよりは都度「作られる」ものであり、それ自体としては不定であることなどを論じている。

そしてまた、条件は法則を支えながらも、法則に書き入れられることはない。しかもいったん法則が成立するとなれば、もとになった個別事例は置き換えうるものとして、それ自体は消去されてしまい、法則はあたかもなんらかの実体概念のように捉えられるようになる。けれども実は不定のものでしかなく、自然はそうしたものの上にあり、また数学という営為も、そのような不定性を突き詰めていく学問なのではないか。そこからさらに同書は、自・他の置き換え可能性から倫理の問題、そして決定論と自由の問題を論じるところにまで突き進んでいく。

ストア派の時代にはなかった道具立てが、現代にはある。そのことを強く噛みしめる。

日常感覚vs科学的見識

哲学のクリシェ的な設問として、「誰もいない森の木が倒れたとき、その音はあると言えるのか」という問題があるけれども、前回のリサ・フェルドマン・バレットの本には、科学の側の回答として、森の木が倒れた際の空気の振動のみがあるだけで、それを受容する感覚器官がなけえれば、音は存在しない、成立しないと記している。なるほどそれはそれで妥当な回答ではあるが、通念的な反応としては、どこかもやもやとしたものも残る。なにゆえにこの微妙な齟齬の感覚が残るのか。「聴覚の存在がなくても、空気の振動があることをもって、現象としての「音」はあると考えてよいのでは?」という応答も可能だからだ。通念的感覚と科学的見識の対立?では通念的感覚は何によって構成されているのか。日常の言語感覚?こういうふうに考えていくと、芋づる式に次々に問題にすべきことが出てくる。

ちょうど、そのような感覚的齟齬の問題を取り上げた一冊が出ていた。飯田隆『虹と空の存在論』(ぷねうま舎、2019)

ここで論じられているのは、「虹」という日常感覚ではどこか曖昧な存在が、なにゆえに曖昧に感じられるのか、そこにどのような存在論的な基盤が与えられているのかという問題。そもそもそれは実体をもつのか、それとも実体のない単に付随的な現象なのか、幻覚などとはどう違うのか。そのあたりを詳細に検討していくと、どうやら日常的な感覚、あるいは日常的な言葉には、「「存在論的」と呼んでよい」(p.138)錯覚が含まれているらしいことが明らかになっていく。そのような錯覚を促す要素もいくつかあり(センスデータの考え方など)、それを回避するための示唆も与えられている。たとえば「知覚の副詞説」(出来事としての虹を見ているときに、たとえば七色のアーチをその見えかたを示すものと捉えること)などだ。とはいえそれもまた十分とはいえないとされる。問いは一定の解決を見たかにも思えるものの、依然として開かれたままのようでもあり、この落ち着かない読後感が、さらにいっそうの探求への欲求を喚起する。哲学の術中にはまるとはまさにこういうことを言う。

イメージ学に(再び)出会う

イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ秋はやはりちょっと厚い本に挑む季節でもある(笑)。というわけで、個人的に今年はまず、春先ごろに出ていたこれ。坂本泰宏・田中純・竹峰義和編『イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ』(東京大学出版会、2019)。ドイツ発の先進的な学際的ムーブメント、イメージ学をめぐる一冊。シンポジウムがもとになった論集ということだが、5部構成の全体のうち、まだ2部のみをざっと眺めただけだけれど、多彩な論考から立ち現れてくるのは、広がりをもった「イメージの現象学」にほかならない。なんといってもこの冒頭部分のうちで目を引くのは、そのイメージ学の中心人物、ブレーデカンプへのインタビューだ。

美術史が取り上げてきた芸術の造形的中心主義から、少しばかり視点をずらしたアプローチをかけることによって、それまでの学知が取りこぼしてきたようなモチーフであったり隠されたテーマであったりというものを拾い上げ、さらに隣接領域の学知を着想源として、それを見えなくしている力学までをも解き明かそうとする。芸術作品が働きかけてくるその様々な動線を見極めること。ブレーデカンプ自身の言葉遣いなら「非媒介的な身振り」なのだそうだが、それは「イメージが表現と表現されたものとの間に入り込む固有の自然力(ピュシス)を示している、という意識を喚起すること」(p.85)だという。そもそも絵画などの作品を見ること自体が、身体そのものの微動(眼球運動など)を伴っているのであって、絶対的な静止状態にはない。ならば、そうした複合的な知覚体験、身体機構の研究もまたテーマにしないわけにはいかない、などなど……。

収録された各論文にも、そうした別様の視点、取りこぼされてきた領域やテーマがそれぞれに息づいている。取り上げられるのは、原寸大写真であったり(橋本一径)、アニメに描かれる身体の不気味さだったり(石岡良治)、甲冑の表象史だったり(イェーガー)、原理主義的なイスラム派により破壊された像の現象学的作用だったりする(ブレーデカンプ)。こうした多彩な着目点と、そこから導かれる学知的広がりは、ある意味とても壮麗だ。そんなわけでこれは、読みかけながら、すでにして個人的に何度も見かえして楽しめそうな論集になっている。