「象徴史・物質論など」カテゴリーアーカイブ

天候の前兆とテオフラストス

何日か前だけれど、テオフラストスの『天候の前兆について』『風について』の合本希仏対訳本(Théophraste, Les Signes Du Temps. Les Vents (Collection des universités de France, Serie Grecque), trad., Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2019)から、最初の『天候の前兆について』を通読する。前兆現象というほどではなく、たとえば動物、とくに鳥などの、鳴き方や鳴くタイミング、あるいは飛び方などによって、雨風が近いとか、天候がよくなりそうだといった、いわゆる世俗的な知識・知恵をひたすらまとめたもの。原因や理由についての考察はないが、羅列されるそれぞれの内容はなかなか興味深い。

こうしてみると、改めてテオフラストスは「コレクター」なのだなということがわかる。一種の収集癖。この本の解説序文では、テオフラストスはボタニストであるとか、エコロジーの始祖であるとか、アリストテレスが理論に走るのにテオフラストスは経験を重視している、とかいった話が記されているけれど、テオフラストスの本質はずばり「コレクター」。これに尽きるように思われる。『人さまざま』(『性格論』とも訳される)もそうだった。そのあたりからすると、ボタニストやエコロジーの始祖といった評価は、どこか一面的すぎるように思われる。コレクターと捉えることで、むしろテオフラストスのコレクション志向について、そうした志向を導いているものは何なのか、何を基準としてどのように集めているのか云々、といった問題が浮上するが、むしろそれこそが、研究対象として面白いような気がする。

絵画もまた思想を語る

まだ読み終わってはいないのだけれど、昨年出たばかりのローラン・ボーヴ『ピーテル・ブリューゲル:絵画または無限の圏域』(Laurent Bove, “Pieter Bruegel Le Tableau ou la sphère infinie: Pour une réforme théologico-politique de l’entendement (Matière étrangere) “, Vrin, 2019)がなかなか面白い。これは「ある種の哲学が美術史の一部をなすのと同様に、相関的にある種の美術作品は、哲学史に組み入れることができる」(p.116)との立場から、ピーテル・ブリューゲル(父)の絵画作品を「哲学的に・思想的連関で」読んでいこうというもの。同書では、ブリューゲルが基本的に、マキャヴェッリからスピノザへと至る、政治や神学の切り離しという路線に位置づけられるとして、その人間描写に肯定的な価値づけを見いだしている。たとえば序論では、時代的に先行するヒエロニムス・ボスの絵画が、どこか皮肉な笑いを湛えてはいても、基本的に悪魔的というか、否定的な描写であることと対照的に、ブリューゲルはより近代的な解放感を体現していることを示している。

ブリューゲルの絵画は群像的で(今風に言うならモブ、あるいはマルチチュードか)、絵画のタイトルにもなっている主題的なもの(それは聖書から取られたりするものだが)が必ずしも前景を占めていない点が特徴的だが、それがかえってある種の思想的なテーゼを喚起したりもする。そうした観点からの分析で様々な作品が取り上げられる。個人的にとても惹かれたのは、<ベツレヘムの人口調査>(1566年)についての解釈。イエスの養父となる大工のヨセフが、人口調査のため、イエスを身ごもったマリアを連れてベツレヘムに到着するという聖書の場面を、ブリューゲルは冬のフランドルの寒村に置き換えて描いているというのだが、そのヨセフとマリアの姿は、ロバと牛を引いている以外は完全にほかの人物像たちに溶けこんでしまっている。しかしながらここには、複数のモチーフが多重的に重ねられているというのだ。まずは歴史的に、ハプスブルク家のフェリペ2世による税金取り立てが示唆される。そこに宗教的なテーマ(旧約に代わる神との新約)が重ねられる。

そして何よりも興味深いのが、ヨセフの人物像に託された意味合いだ。14世紀にオッカムのウィリアムがアウグスティヌスの神学や教皇の勅令などを向こうに回して個々人の力を称揚し(これはツヴェタン・トドロフの指摘だという)、少し遅れてジャン・ジェルソンがヨセフを崇拝の対象へと高めることを提唱した経緯があり、それまで民衆のレベルでなら崇拝対象になっていたヨセフは、15世紀初めごろから、人文主義的な新たな「人間」像、新たな生活のモデルを体現していたのだという。つまりは聖家族の理想、労働やつましい生活の称揚だ。改革派的なそうしたヨセフ像は、様々な画家によって描かれ、ブリューゲルもまた、一般人の価値の高まりと都市における職人の市民権の要求とが交差する中での、新たな人物像のアプローチ(p.92)を体現しているのだという。人間像の刷新としてのヨセフと、それをモブの中に、あるいはマルチチュードの中に組み入れるブリューゲルの、近代的な筆致のなせる業、ということか。

外と内とハイブリッドと

前回取り上げたベルクマンの本では、第5章が「脳または新たな物神」という表題で、脳科学者たちが精神分析などの思弁的な教説を、科学的な言説でもって塗り替える、もしくは取り込もうとしていることを、改めて問題として掲げている。内的な作用をあえて比喩的・概念的に描きだすのか、それともひたすら外部から観察可能な事象のみで接近しようとするかの、ある意味根源的な対立関係にあって、一部には両者の微妙なハイブリッドも散見されるらしいことが、その議論から浮かび上がってくる(脳科学側にも、人文学側にも)。それは果たして価値ある議論になりうるのか、とそこでは批判的に問うている。

それにも関連するが、少し前に見た論集『イメージ学の現在』では、イメージ学の下位分野に神経イメージ学という分野の存在が示唆されていたほか、それと同時に、神経美学という分野にも触れられていた。両者の違いは、神経イメージ学が「知覚論を参照し、イメージ分析と知覚分析の弁証法からイメージ表象を読み解こうとする」のに対し、神経美学は「芸術作品をトリガーとして引き起こされる情動体験と脳活動の相関を主な研究トピックとする」(同書第5部序文、坂本泰宏、p.404)ものだという。神経美学のこれまでをざっと振り返る石津智大「神経美学の功績」(同書18章)でも、「神経美学は「脳の仕組み」を理解する学問であり、人文学の主張を肯定も否定もするものではない」(p.474)としている。最近出た入門書という位置づけの石津智大『神経美学: 美と芸術の脳科学 (共立スマートセレクション)』(共立出版、2019)でも、そのことは易しい語り口で丁寧に解説されている。なるほど、神経イメージ学と神経美学とは目指す方向性も違えば、アプローチもまったく異なることがわかる。では、なんらかのハイブリッドのようなものは出てきていないのだろうか、あるいはこれから出てくる兆しなどはないのだろうか、という点が少し気になってくる。
神経美学: 美と芸術の脳科学 (共立スマートセレクション)

行為からの図像論

あいかわらず趣味のProcessingでの演習も続けている。近頃はちょっと気の利いたデザインや動きのある模様などをみると、Processingで再現もしくは似たようなエフェクトを作るにはどうすればいいかと考えるようになった。だいたいこんな感じかと思って実際に打ち込んでみると、うまくいったりいかなかったりし、不首尾の場合はさらにあれこれ考えるわけだけれど、そうした試行錯誤がまたなんとも楽しい(笑)。

そんなこともあって、最近は図像への関心(絵画にとどまらず)がさらに高じてきており、関連する論考なども改めて読んでいきたいと思っている。というわけで、今回は手始めにこれ。ゴットフリート・ベーム『図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか (叢書・ウニベルシタス)』(塩川千夏、村井則夫訳、法政大学出版局、2017)。個人論集だが、個々の論考から浮かび上がるテーマとして、図像というものを行為(見せる行為、描く行為)の側から捉えようという姿勢に貫かれている。

図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか (叢書・ウニベルシタス)そもそも図像(イコン)は「人間の奥深くに根ざした欲求」(p.35)であると著者は述べ、さらに「不在という影をもたない図像は絶対に存在しない」(p.36)と指摘する。図像は物質的な基盤でもって別の何かを呈示するという点で、その別の何かがその場に根本的に不在であることが前提されている、ということ。そこから、地(物質的な支持材)に対して図(別の何か)がいかにして浮かび上がるのか、いかにして浮かび上げるのかが問題になる。こうして様々な図像の検証が始まる。ただしそれは一貫して、図像を成立させる行為の視点からの解釈学的な議論になる(この点で、史的な考察を読み込みたいと思っていると、多少フラストレーションがないわけでもない)。たとえば図像としての地図。それは地平線を必要としないことから、風景描写などとは「まったく別種の視覚体験にもとづいている」(p.83)というが、ここでは両者がいかに歴史的に成立したのかといった根本問題は問われない。むしろ両者が史的にいかに離れ、またときに接近しりしてきたのか(ダ・ヴィンチやエル・グレコ、そして現代アートの例など)を、著者はまとめていく。

それでも興味深いトピックはいくつもある。たとえば素描の問題。図像のいわば「始まり」でもある素描は、まさに地から図が浮かび上がる原初の風景だ。素描に刻まれる痕跡は「可視性が形成される過程をまるごと包み込んでいる」と著者はいう。その上で著者は、「地と図の相互作用の諸要素」(p.154)を探ろうと訴える。素描として刻まれる痕跡は、「形式ならざるものと多義的なものとが自ら可視的なものに変貌を遂げる」(p.164)プロセスだとされ、そこでは線がどう動いたかを示しながら、同時にそうした動きの前後関係で規定される時間性を出し抜いて、時間的な総合をももたらすとされる。平面として、そうした時間的な動きは一度にそこに晒される、ということだ。素描に示されるのはそうした総合をなす「平面の力学」なのだという。

ほかにも、図像における輪郭線のゆらぎの問題などもある。地に対する図というかたちで先鋭化するイコンは、一方で輪郭がぼやけることで非イコン化することができるし、実際に近代以降から現代アートまで、そうした例には枚挙にいとまがないほど。この非イコン化のプロセスの原因を、著者は「未規定性」と称し、近代絵画(印象派など)を例に、そこに図像を導く別様の力の可能性を見てとっている。そうした未規定性の潜在力は、ライプニッツの微小表象やポランニーの暗黙知にも重ねらられ、さらには「未規定なものとの関係を通じてこそ知覚が確立される」というフッサールの議論(p.224)が引き合いに出されている。こうした主題のそれぞれがさほど深められている印象はないけれど、いっそうの考察を促すという意味で、同書はまさに導入の書というにふさわしい。

より細かく掬い上げる

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)ブリュノ・ラトゥールが中心となって提唱するアクターネットワーク理論は、最近のモノの実在論などにも通じる、興味深い方法論に思える。要は社会的・自然的に存在するあらゆるものをアクター(働きかけるもの)と捉え、その作用が連なって(エージェンシー)織りなす連鎖(ネットワーク)として現象を捉え返そうとする思想、ということらしいのだが、そうは言っても、個別的な作用の具体的な記述がどんなものになるのかは今ひとつ見えない。というわけで目下、そのラトゥールによる社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)』(伊藤嘉高訳、法政大学出版局、2019)を読んでいる。まだ前半に相当する第一部のみ。

アクターネットワーク(ANT)の入門と銘打っているが、それにしてはずいぶんと長大な入門書。けれども記述そのものは比較的平坦な印象で、その意味では入門を謳っているのもわからないでもない。とはいえアクター概念、ネットワーク概念などのそこでの解説は、従来概念との対比から、否定的に(これではない、あれでもない、と)浮かび上がらせる手法が用いられていて、そのせいもあってか、やはり定義的にどこか不明瞭な部分が残ってしまう感じも否めない。一方で、主流の社会学が振りかざすような、どこか大まかな概念、大仰な理論によらず、調査対象をいっそう広げ、相互連関の記述を精緻化し、従来ならば救い取れなかったような作用や連関をもっと丁寧に拾い上げようとする姿勢であることはわかるし、そこだけは共感できる。ただしそれは学問的には困難な道とならざるをえない印象だ。なにしろ一般の学究の徒は、ただでさえ論文作成に追われ、結果的に細やかな事物の相互連関にまで時間をかけて問い詰める余裕などなさそうに思えるから。細やかさを極めようとすれば、それだけいっそう論文の生産は遠のいてしまいそうだ。

ラトゥールもそうした問題を取り上げており、テキストによる報告そのものにも、従来とは違うスタンス・姿勢で臨む・認識することをあえて提唱しているようだ。第一部の末尾には、ある博論過程の学生がANTを擁護する教授のところを訪ねてくるというシチュエーションでの、架空の対話が幕間として挿入されているが、博論にANTを活用したいという学生と、指導教官ではないらしい教授とのやり取りはまったく噛み合わず、そこからは学問的な姿勢そのものの差異が示されてくる。どこか諧謔的(さらには自虐的?)なやりとりは、制度化された学問ではない新たな学問姿勢を問題にしているかのようだ。研究そのものがアクターやその作用に連なっていくような観点、そして複数の細やかなノートテイキングの推奨など、同書の前半最後の章で示されているのは、論文生産の現場すらをも根底から作り変える可能性ということ……なのだろうか。