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再びリカルドゥス:知覚論

Questions Disputees: Questions 23-31 Les Demons (Bibliotheque Scolastique)先日取り上げたメディアヴィラのリカルドゥスの悪についての論。その問題31がなかなか面白い。「悪しき天使はわれわれの感覚に働きかけることができるか」というのがそれで、リカルドゥス自身の議論はこれを肯定するわけだが、まず、感覚に働きかけるとはどういうことか、感覚とはそもそもどのようなものかを問うところから始まっている。アヴィセンナが典拠だという、脳室の精緻な分類がまずは示され(このあたり、実に解剖学的だ)、次いでそれら各脳室に、それぞれの感覚の機能(というか潜在力:virtus)が割り当てられる。共通感覚(5感を統合する総合的感覚)は前頭部前野に、映像的記憶の蓄えは前頭部後野、認識の機能は脳中央のくぼみの下部(間脳、視床下部)、推論機能は同じくぼみの上部、記憶の想起の機能は後頭部だとされる。諸機能がそれぞれ脳の特定部位をあてがわれているところは、13世紀末のテキストながらなかなか近代的。

一方、これらの機能が活性化するためには、そうした潜在力に対して反応する媒体・媒質として精気(spiritus)がなくてはならないとされる。それは心臓で作られ、その後に脳に運ばれるという。精気は器官に対しては離在的であるとされる。魂とは別もので、脳に上っていく過程で繊細さを増し、感覚的魂の影響を受けるよう適応していくという。器官どうしの間を行き来し、たとえば空気という媒質を太陽の光からその潜在力を引き出すように(ものの形を可視にし、色を露わにするなど)、魂の働きかけと脳の各部の潜在力を媒介し現働化する。ガレノス的なこの精気概念の典拠とされているのはクスタ・イブン・ルカだ(10世紀のバグダードで活躍したキリスト教徒の医者)。悪魔が感覚に働きかける方途は、一つにはこの精気を通じてだということになるようだ。

とても面白いのは、仏訳ではこのspiritusをcorpuscule(小体・粒子)と訳している点だ(ゆえにリカルドゥスの人間論を「粒子的人間論」というふうに称したりもしている)。可滅的で繊細な、魂とは別の質料的なもの、ということで小体・粒子と解されるということなのだろうけれど、問題31の解説序文(アラン・ブーロー&リュック・フェリエ)によれば、生来的精気(spiritus physicus)の教義は12世紀末に、シトー会のステラのイサクやリールのアラヌスなどが盛んに取り上げていたものの、リカルドゥスはそれをさらに練り上げているとのこと。

メディアヴィラのリカルドゥスによる「悪」

Questions Disputees: Questions 23-31 Les Demons (Bibliotheque Scolastique)オリヴィの論と平行して、メディアヴィラのリカルドゥスによる悪(悪魔)についての論も読み始めた。ものは『討論問題集』の問題23から31、底本とするのは羅仏対訳・校注本の第4巻(Richard de Mediavilla, Questions disputées: Tome IV, Questions 23-31, Les Demons (Bibliotheque Scolastique), Paris, Les Belles Lettres, 2011)。オリヴィによる悪の定義が、たんなる善の否定にとどまらず、存在論的な実体としてあることを謳っていたのとは対照的に、リカルドゥスはアンセルムス以来の「善の不在・欠如」としての悪を、とことん突き詰める方向へと向かうようだ。冒頭の問題23では、まずその善に不在・欠如としての悪の事例として、自然の法に従わないことによる生成力・形成力が怪物を生む、といった例が出されている(第1項)。次いで天使の堕落(最初の罪)もまた、存在そのものの善性と不整合であるという意味で不在・欠如をなしていると解釈される(第2項)。

なんらかの原理によって悪が生じる(実体的に)のはありえないとするリカルドゥスは、したがって天使の罪もまた、なんらかの原理から生じた実体的なもの、生じるべくして生じたものではないと考えている(第3項)。したがってそれは天使の意志から生じたものなのだ、と。しかしながら、意志もまた本来的には善を志向するものとして創造されているとされる(第4項)。ゆえにその罪は、意志において偶発的に生じたもの(意志におけるある種の脆弱さ・欠陥)であるはずだ、という(第5項)。さらにいえば、意志におけるそうした脆弱さの可能性(defectibilis)と、それがもつ自由から生じているのだ、と。自由における可誤性の議論では、自由というものが、被造物の不完全性としての意志の脆弱さ・欠陥(の可能性)を現働化する条件になっている、とされている。ここへきて、オリヴィとは正反対の悪の定義から出発しているリカルドゥスが、同じように意志の自由の問題に出くわしている点がなかなか興味深い。

オリヴィによる「悪」の問題

昨年の今頃(正確には一昨年の12月)、目標の一つとして掲げていたものの、あまり時間が取れずに先延ばしになっているのが、メディアヴィラのリカルドゥス(13世紀末)を読んでいくこと。今年はもう少し精力的に取り組みたいところだ。そんなわけで、まずは悪の問題(もしくは悪魔論)、すなわちフランスで出ている校注本の第4巻に注目したいと思っているのだけれど、その校注者(アラン・ブーローとリュック・フェリエ)の序文に、悪魔に関する13世紀末ごろの神学上の議論はことのほか少なく(正面切って論じたものは、リカルドゥスのほかにはトマス・アクィナス、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの議論くらいしかないという(!))、わけてもオリヴィのものが独特で際立っているということが記されていた。なので、いったんそちらへと迂回してみることに。

Traite Des Demons: Summa, II Questions 40-48 (Bibliotheque Scolastique)そちらも同じ叢書から校注・対訳本が出ている。アラン・ブーロー校注・訳のペトルス・ヨハネス・オリヴィ『悪魔論ーースンマ第二巻問題40から48』(Pierre de Jean Olivi, Traité des démons: Summa, II Questions 40-48 (Bibliothèque scolastique), éd. Alain Boureau, Paris, Les Belles Lettres, 2011)がそれ。概要を記した同書の序文によれば、オリヴィの論の特徴は、(1)アンセルムス的な、悪の存在論的不在を否定し、(2)悪を自由のもう一つの面であると規定し(スコトゥスの先駆)、(3)悪魔の失墜を終末論的図式から解釈して人間による未来の行為の可能性を開き、(4)理性をもった被造物(人間、天使、悪魔)を、地位として近く、変動的な存在と位置づけていることにあるという。

さしあたり個人的に興味深いのは(2)の側面で、これは問題41「堕罪の可能性は私たちの自由の一部をなしているか」で扱われている。オリヴィの見解によると、堕罪の可能性には受動的なものと能動的なものとがあり、それを受動的なものとのみ見なすならば、人間には厳密な意味での自由がないし、一方で能動的・恣意的自由のみを自由と見なすならば、堕罪の可能性は自由には含まれない。ところが人間の自由とはこの二つの複合なので、堕罪の可能性は自由の一部をなしている。そこには、実体的(本来的)自由には属さない、罪を犯す偶有的な性向が付随するのだ、と……。本来的自由とは神の有する自由であって、そこにはなんら制約はないだろう。しかしながら創造された自由(被造物の自由)は、そうした不完全な制約がつきまとう。善の欠如・不在で考える以上に、悪の問題は大きなものであることを、オリヴィはたしかに見据えているように見える。

スコトゥスの「似像」論

L'image (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)春先くらいに、実在論的表象主義の可能性の話を取り上げたけれど、なにかそれに関連するものがないかしらと、スコトゥスの「イメージ論」を抜粋したという仏訳本を見てみたのだけれど(Duns Scot, L’image (Bibliotheque Des Textes Philosophiques), trad. Gérard Sondag, Librairie Philosophique J. Vrin, 1993)、残念ながらそういうものではなかった(苦笑)。これはむしろスペキエス(可知的形象)論の部分を抜き出したもの。正確には『オルディナティオ』第一巻、第三区分、第三部、問題一から四という構成。前に取り上げたのは代示(というか仮象)の話で、主な出典は『自由討論集』第九巻。そちらが収録されていないかと思ったのだけれど、空振り。でもまあ、久々にスコトゥスのスペキエス論を見直すのも悪くはない。スコトゥスは基本的にスペキエスを認める立場。魂の中の知的部分が主たる原因となって知解は生じるとされるけれど、そうした知解能力を超える対象(至福の対象、すなわち神)にあってはそちらが主たる原因となる。これが大きな思考の枠組みになっている。これに、たとえば問題四で扱われるような、三位一体の「似像」としての魂(記憶、知性、意志)といったイメージ論が連なる。こうしたあたりは最初に押さえるべき、またときおり見直すべき基本だったりもする……。

アンチ世界永劫論−−ボナヴェントゥラの場合

かなり前にダウンロードしたベンジャミン・ポール・ウィンター「ボナヴェントゥラによる六つの反・世界永劫論の哲学的・神学的分析」(Benjamin Paul Winter, A Philosophical and Theological Analysis of Bonaventure’s Six Arguments against the Eternity of the World, Villanova University, 2014)(修論のようだが、あれれ、これは現在ダウンロード不可?)にざっと眼を通す。ボナヴェントゥラはアリストテレスの議論を踏まえつつも、その「世界永劫論」に対しては否定的なスタンスを取っていた。けれどもそれはトマス・アクィナスなどの議論とは大きく異なっている……。というわけで、同論考はそのあたりを具体的に見ていこうとし、結果的にまとめとして有益な論考になっている。ボナヴェントゥラが展開した議論は6つ(ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』への注解として論じている)。(1)無限には別要素を加えることができない。(2)無限の数は秩序づけることができない。(3)無限であるものを横断することはできない。(4)有限の能力によって無限を掌握することはできない。(5)無限数の事物が同時に存在することはありえない。(6)無から有になったものが、永遠の存在を得ることはありえない。論文著者はこのうち(1)から(3)を数学的・哲学的議論、残りを神学的議論(無からの創造の教義に関わるもの)と区分している。

個人的にはとりあえず前者に目が惹かれる。ボナヴェントゥラが問題にしているのは現実態としての世界の永劫性だ。最初の三つの議論は、どれも数の無限が「現実態として」はありえないという論点にもとづいている。算定できるような数的無限は定義上あり得ず、無限同士の比較もできない、とされる。地球の回転、太陽の回転、月の回転は、数量的に互いに異なっているかもしれないが、無限の回転という意味では同一だとされる。けれども、今日の回転が昨日までの回転よりも一回分多いことは理に適っており、したがってその回転が無限だという前提は誤っていることになる……これが(1)の議論。また「最初」が特定されないならば、2番目以降も特定されえず、そこにはいっさいの序列、秩序がありえないことになってしまう。だが第一原理の存在は認めなくてはならない云々。これが(2)の議論。「過去」を潜在的に無限の出来事が連なるものと考えた場合、そこには時間と出来事との対応関係がなくてはならなず、時間もまた無限ということになるが、そうした属性を認めるかどうかが問題となる。ボナヴェントゥラはもちろん、そうした対応関係を認めない。これが(3)。これら三つの議論はどれも相互に連関している。無限同士の比較(それが可能になれば全体の連関が崩れる)という議論が出るのには、ボナヴェントゥラの次の世代以降(一四世紀)を待たなくてはならないのだけれど、この論考はさしあたりそうした思想史的な話を追おうとはしていない。そこがちょっと個人的には残念……かな?