「近代初期・近世のほうへ」カテゴリーアーカイブ

絵画もまた思想を語る

まだ読み終わってはいないのだけれど、昨年出たばかりのローラン・ボーヴ『ピーテル・ブリューゲル:絵画または無限の圏域』(Laurent Bove, “Pieter Bruegel Le Tableau ou la sphère infinie: Pour une réforme théologico-politique de l’entendement (Matière étrangere) “, Vrin, 2019)がなかなか面白い。これは「ある種の哲学が美術史の一部をなすのと同様に、相関的にある種の美術作品は、哲学史に組み入れることができる」(p.116)との立場から、ピーテル・ブリューゲル(父)の絵画作品を「哲学的に・思想的連関で」読んでいこうというもの。同書では、ブリューゲルが基本的に、マキャヴェッリからスピノザへと至る、政治や神学の切り離しという路線に位置づけられるとして、その人間描写に肯定的な価値づけを見いだしている。たとえば序論では、時代的に先行するヒエロニムス・ボスの絵画が、どこか皮肉な笑いを湛えてはいても、基本的に悪魔的というか、否定的な描写であることと対照的に、ブリューゲルはより近代的な解放感を体現していることを示している。

ブリューゲルの絵画は群像的で(今風に言うならモブ、あるいはマルチチュードか)、絵画のタイトルにもなっている主題的なもの(それは聖書から取られたりするものだが)が必ずしも前景を占めていない点が特徴的だが、それがかえってある種の思想的なテーゼを喚起したりもする。そうした観点からの分析で様々な作品が取り上げられる。個人的にとても惹かれたのは、<ベツレヘムの人口調査>(1566年)についての解釈。イエスの養父となる大工のヨセフが、人口調査のため、イエスを身ごもったマリアを連れてベツレヘムに到着するという聖書の場面を、ブリューゲルは冬のフランドルの寒村に置き換えて描いているというのだが、そのヨセフとマリアの姿は、ロバと牛を引いている以外は完全にほかの人物像たちに溶けこんでしまっている。しかしながらここには、複数のモチーフが多重的に重ねられているというのだ。まずは歴史的に、ハプスブルク家のフェリペ2世による税金取り立てが示唆される。そこに宗教的なテーマ(旧約に代わる神との新約)が重ねられる。

そして何よりも興味深いのが、ヨセフの人物像に託された意味合いだ。14世紀にオッカムのウィリアムがアウグスティヌスの神学や教皇の勅令などを向こうに回して個々人の力を称揚し(これはツヴェタン・トドロフの指摘だという)、少し遅れてジャン・ジェルソンがヨセフを崇拝の対象へと高めることを提唱した経緯があり、それまで民衆のレベルでなら崇拝対象になっていたヨセフは、15世紀初めごろから、人文主義的な新たな「人間」像、新たな生活のモデルを体現していたのだという。つまりは聖家族の理想、労働やつましい生活の称揚だ。改革派的なそうしたヨセフ像は、様々な画家によって描かれ、ブリューゲルもまた、一般人の価値の高まりと都市における職人の市民権の要求とが交差する中での、新たな人物像のアプローチ(p.92)を体現しているのだという。人間像の刷新としてのヨセフと、それをモブの中に、あるいはマルチチュードの中に組み入れるブリューゲルの、近代的な筆致のなせる業、ということか。

ジョルダーノ・ブルーノの質料論

原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)漠然と、そろそろ腰を据えてジョルダーノ・ブルーノを読むのもよいかな(笑)と思い始めている昨今。今週は空き時間に、改めて邦訳の著作集から原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)』(加藤守通訳、東信堂、1998)を見ていた。これは5つの対話からなる対話篇。いろいろ興味深い点も多く、第5対話で展開する「正反対のものの同一」の無限概念を説明するくだりなどは、すべてがある種の一元論的世界観で貫かれていて圧巻。けれども個人的にはまず、質料について能動的な面が強調されているところ(この言い方は巻末の訳者解説より)が、とくに眼を惹かれる。第4対話では、質料はペリパトス派が言うような純粋に受け身のもの・可能態などではなく、諸形相をみずからのうちに内包し(胎内にもつ、と表現される)、現実性の泉をなすと言われている。変化するのは質料そのものではなく、質料の周りのもの、つまりは複合体にほかならない。加えて、質料は完全体なのでそもそも形相を求めたりはせず、形相のほうがむしろ不安定なものとして、質料を求めるのだとされる。かくして質料は神的な存在であるとまで言われている……。

本文で示唆され、また解説でも述べられているが、これはプロティノスに絡んだ質料観ということのようだが(実際プロティノスは本文中でたびたび引用される)、そのあたりは厳密に詰めてみたことがないので、時間ができたときの検討課題の一つに加えておこうかと思う。質料観の変遷史というのは、なかなか面白いテーマかもしれない(と、これまでもたびたび言うだけ言ってきたような気がするが(苦笑))。

物体的実体とか

形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794)前回ライプニッツの書簡を見て、これがなかなか面白いと思ったので、ついでに形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794)』(橋本由美子監訳、平凡社、2013)も見てみた。前回取り上げたデ・ボスとの書簡のやり取りは1706年から1716年にかけてのものなのだけれど、このアントワーヌ・アルノー(フランスの著名な神学者・ジャンセニスト、『ポール・ロワイヤル文法』などの著者の一人)とのやり取りはそれに先立つ1686年から1690年のもの。扱われているテーマは大きく二つで、一つは実体というものの中に、過去・現在・未来のあらゆる事象が潜在的に含まれているという、後のモナド論に直結するテーマ。もう一つは、物体的実体をどう定義するのかというテーマ。前者は、アダムが創造されたときに、その後の人類の展開がすべて仮定的必然として含まれていた、無数の可能的アダムが神の想念のうちにはあり、神はそこから一人のアダムを選び、今の人類がある、といった話にもなっていく。この部分はさながら可能世界論の先駆といったところでもある。自然法則の総体が、神のプランの実行のためにあらかじめ被造物全体に仕込まれて秩序を形成しているとし、そしてその全体の秩序がそのアダムの選択に結びついたものであるという世界観。

後者のほうは、「実体」の捉え方が問題になっていて、これがのちの実体的靱帯の議論などへと発展していく。書簡の面白さは、相手の疑問や反論を受けてライプニッツがどう自説を変化・深化させていくのかというところにあるわけだが、アルノーとのやり取りでは、突き詰められることによってライプニッツの実体概念の細部がいろいろ明らかになってくる。物塊が単なる集積でなくなるためには実体形相(生命を司る魂のような)による統一が必要と説くライプニッツは、その後のやり取りを通じて、あらゆるものは「生命ある魂」に満ちている、という極限的な発想にまでいたる。物塊などは現象にすぎず、真に一をなす存在とは生きた実体にほかならないとして、ライプニッツは岩などの無機物にすらそうした可能性がある、ということまで言い放つ。もちろん後にはこのあたりのスタンスはまた変化を遂げていくわけだけれど、こうして考え方の基本線が明滅しつつ変化を遂げていくのを少しでも追えるのは、とても刺激的な読書体験だ。専門的な研究者だけが読む、というのでは勿体ない気もするし、願わくばこういう廉価版のかたちでほかの書簡などもどんどん切り出して刊行していってほしいものなのだが……。

実体的靱帯

ライプニッツ著作集 (9)フレデリック・ネフの先の著書の問題圏から、再び今度はライプニッツを取り上げよう。つながりの存在論の嚆矢とされるライプニッツだが、それは「実体的靱帯」概念が提示されているからだろう。この概念についてライプニッツが論じている代表的文献といえば、なによりもまずデ・ボスとの書簡がある。というわけで、とりあえずライプニッツ著作集 (9)』(工作舎、1989)所収の抄訳(佐々木能章訳)を見てみた。

そこで示されているのは、モナド同士が結びついて複合的実体(たとえば動物とか、有機的身体とか)を作り上げるという考え方。モナドそのものには別様と結びつく際に差し出す手のようなものはないとされる以上、複合的実体の存在を認めるならば、そこにはなんらかの「結ぶもの」が外部からもたらされなくてはらない。それをライプニッツは「実体的靱帯」と呼ぶ。それがどういうものなのかは明示されない。というか、これはあくまで論理的推論によって導き出されている概念なのだから、それ自体がどういうものか、どういう様態で結びついているのかを考察するというモーメントはここにはないのかもしれない。ただ、そうした靱帯が想定されなければ、全体の議論の体系が瓦解してしまうということになる、というわけだ。ネフが掲げる問題はある意味、メレオロジーやトロープス論など成果を当てはめて、そうした論理的概念として出てきた「実体的靱帯」なるものを現代的に刷新できないか探るというものになる。

面白いのは、この実体的靱帯という考え方が出てくる直接的なきっかけになっているのが、キリスト教の「化体説」をめぐる議論らしいこと。聖別されたパンと葡萄酒が、キリストの肉と血の実体化にほかならないというその教義にモナドの考え方を当てはめると、複合的実体としてのパンと葡萄酒のモナドがいったん消滅してキリストの血肉のモナドが生成し、パンと葡萄酒の「現象」のみが存続したようになる、ということになりそうだものだが、ライプニッツはそもそもモナドの生成消滅を認めない。そのため、モナドの結びつきによってパンと葡萄酒が出来上がっていたものが、その結びつきを解かれ(神の力によって)、代わりにキリストの血肉をなす結びつきがそこに出来上がったとすれば、モナドの生成消滅をともなわずに化体説の教義が救済できることになる。こうしてライプニッツは、モナドをモナドのまま温存し、代わりにモナドを相互に結びつけるなんらかのものを仮構してみせる。そしてその「靱帯」は敷衍されて、身体などの複合的実体を「支配的モナド」のもとで一つにまとめるための結合剤として提唱される。

クザーヌス:図Pと図Uの連関

12/9発行のメルマガで言及したトロットマンの論考から、大手哲氏による図Pと図Uの連関の図を掲げておく(クリックで拡大)。