「イアンブリコス研」カテゴリーアーカイブ

イアンブリコスと数学 2

前回はVI章あたりまでだったけれど、さらに先に進みざっとXV章あたりまで。まだまだ先は長い(笑)。一般に当時の認識論では、認識機能と認識対象とは相似の関係にあり、知性に対しては知解対象(νοητός)が、感覚に対しては感覚対象(αἰσθητός)(現実敵な個物)が対応する。で、知性とは別にそれを補佐する中間物として思惟と思惟対象(διανοντός)が来る。感覚の側にも中間物が設けられ、信(臆見)とその対象(πιστός)をもつ。かくして、四区分のできあがりだ(VIII章)。(もっとも、大きくは知解対象、思惟対象、感覚対象の三区分となる)。数学はこの思惟に対応する部分で、数学的対象は思惟対象ということになる(IX章など)。数学的な認識は魂に内在しているものであり、数学という営為ではそれを探求して発見にいたるわけなのだけれども、そもそも探求は学習(μάθησις)に端を発するのであり、それが数学のいわば語源をなしている、なんて話も(XI章)。その内在的な原理として、一と多があるが、それは対立物の原理をなしている。有限・無限、同一と差異、元素と類などなど。このあと、数学的対象の認識をめぐる諸相についての話が続いていく。

ここでついでながら、最近見たイアンブリコスの数学論の参考文献を挙げておく。クラウディア・マッジ「イアンブリコスの数学的実体論」(Claudia Maggi, Iambrichus on Mathematical Entities, in Iambrichus and the Foundations of Late Platonism, ed. E. Afonasin et al., Brill, 2012 )という論考で、総合的にイアンブリコスとその周辺を読み込んでいる労作。いくつかのポイントが整理されているが、そのうちの一つ(同論考の第四節)によると、すべてが一者からの発出であると考えるプロティノスに対して、イアンブリコスは一のほかに二(多をもたらす)をも原理に含め、二元論的な考え方へと戻っているのだという。

イアンブリコスと数学 1

イアンブリコスの『共通数学について』(De commvni mathematica scientia liber; ad fidem codicis Florentini edidit Nicolavs Festa, Lipsiae, 1891)を読み始めたところ。このarchive.orgのものは少し乱丁があるけれど、まあそれはご愛敬。まだほんのさわりの部分を読んだだけだけれど、数学の特殊な抽象性についてわりと突っ込んだ話が展開していて興味深い。プロクロスの議論と同じように、数学的な対象、すなわち数というものは、感覚対象(種)と知解対象(類)の中間にある抽象的な対象として扱われる(II章)のだけれど、それは感覚から分析的に析出されるものなどではなく、鷲づかみのごとく一気に、いわば直接的・直観的に捉えられるものと見なされている(VI章)。たとえば「一」と「他(複数性)」などの対立物は、一方を捉えることで、そこに他方が現前していなくても捉えられる。こうしたことは対立物一般について言え、たとえばモノの大小なども、感覚から抽象されるのではなく、感覚に先だって把握される。で、その起源を探ろうとすればそれは魂そのものに帰結する、と。あらかじめそうした対立物を理解するための仕組みが、そこに備わっているということのようだ。ここでのテーマは数学なので、イアンブリコスはその魂の機能そのものには立ち入っていかないようなのだけれど、少なくとも数学的対象は、そうしたアプリオリな理解に関係しているようだ、というわけだ。

ちょっとこれは随時メモでも取りながら読み進めることにしよう。

イアンブリコスの霊魂論

Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrinaルクレツィア・イリス・マルトーネ『イアンブリコス「魂について」—断章、教義』(Lucretia Iris Martone, Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrina, Pisa University Press, 2014)を読んでいるところ。イアンブリコスの霊魂論の断章本文の校注・翻訳(同書の中間部分)を含む、総合的な研究書。イアンブリコスの霊魂論がドクソグラフィー的(魂をめぐる諸説を集めたもの)だという話は前から聞いているけれど、その残っている断章を見ると確かにそういう感じではある。アリストテレスの教説に対してプラトンおよびプラトン主義者の説を対置していたり、さらにはプラトン主義陣営内ので異論なども拾ってみせている。もちろんそれら以外の学派や思想家たちについても取り上げている。

たとえば魂がいくつの部分から成るかという問題。アリストテレスが魂のの不可分性を取り上げるのに対して、プラトンは魂が3つの部分から成るとする(断章13)。機能的区分ならば、ゼノンなどは8つを区別し、アルキュタスやピタゴラス派は3つ、アリストテレスも5つを区分しているとまとめている(断章14)。プラトン主義陣営内の異論ということで言えば、運動機能などをめぐって、プロティノスやポルフュリオスは、形相や生命、諸作用が単一の秩序(調和)、単一のイデアに帰結すると考えているのに対して、ヌメニオス、アッティコス、プルタルコスなどは論戦を張っているという(断片23)。このあたりの相違などを詳細を読み解くのが、同書の後半をなす著者マルトーネによる教義についての論考ということになる。もちろんイアンブリコス自身の考え方も復元の対象に。

同書の前半部分は研究史などを批判的にまとめている。それによると、基本的にこれらの断章がドクソグラフィー的なのは、それらを収集・編纂した五世紀のヨハネス・ストバイオスの方針のせいなのだという。本来イアンブリコスは、様々な異論を取り上げた後に自説を展開していただろうというのだけれど、残された断章にはあまりそれが取り込まれていない。そんなわけで、あまりにも長い間、イアンブリコスは折衷主義的(アリストテレスとプラトン主義の)で哲学的には見るべきところがあまりないと一蹴されてきたという。状況が変わったのはつい最近(70年代くらいから再評価の兆しがあり、とくに顕著になったのが1990年代以降)で、そのプラトン神学の議論がプラトン主義陣営内の対立などを反映しているとして再評価を得たのだ、と。霊魂論に限っても、その全体的な構成について、従来のものを批判的に捉え異なるかたちで復元の試みがなされている。

余談だけれど、前回のエントリーで触れた、プロクロスの先駆とも位置づけられるイアンブリコスの『共通数学について』(De Communi Mathematica Scientia)もネット上にある。これも後で読みたいと思っている。

イアンブリコス『神秘について』から 5

続く箇所(3.5 – I 16)では、上位の存在について、それらが肉体(あるいは物体性)をもつかどうかという問題は基本的に不可知であることを説いている。

(3.5)あなたの書簡には続いて、肉体をもつかもたないかで神々をダイモンと区別するということが記されている。その区別はこれまでの区別よりもはるかに一般的で、それらの存在の個別の属性を示すことからかけ離れている。そのため、それらについても、それらに付随することがらについても、推測することはできない。というのも、それらが生物なのか生物ではないのか、それらが生命を欠いているのか、あるいは生命をまったく必要としていないのかを、その区別から知ることはできないからだ。さらに、一般的なもの、または多数の差異について述べるとするなら、どのような意味でそれらの語[肉体をもつ、もたない]が言われているのかも、容易には推測できない。一般的なものについて述べているのであるなら、肉体をもたないものを直線や時間、神、ダイモン、火、水といった類のもとに置くとしたら不条理である。多数性について述べているのであるなら、あなたが「肉体をもたないもの」と言う場合、明らかな像よりも神について述べるのはどうしてなのだろうか?あるいはあなたが「肉体をもつもの」と言う場合、ダイモンよりも土について問うほうがよいと思わないのはどうしてだろうか?というのも、ダイモンに肉体があるのか、肉体を超越しているのか、肉体を用いるのか、肉体を取り巻いているのか、それのみが肉体であるようなものなのかなどは、確定されてはいないからだ。だがおそらくは、そうした区別を徹底的に検証してはならないのである。あなたは自分の理解としてそれを示しておらず、他者の臆見を提示しているのだから。

イアンブリコス『神秘について』から 4

続き。祈りの本質が自己の無の認識と、そこからの脱却にあることが示されている。

* * *

(3.4 続き)だがあなたは、「嘆願は、純粋知性に対してなされる呼びかけとは異なる」と述べている。そんなことはまったくない。私たちが能力や純粋さ、その他あらゆる点において神々に劣っているからこそ、それらに究極の嘆願をなすことは、なににも増して時宜に適っているのだ。実際、もし誰かが私たちを神と比べて判断するならば私たちは何者でもないが、自分自身が何者でもないことの認識は、私たちをごく自然に祈りへと向かわせ、その嘆願から、私たちはわずかずつ、嘆願する対象に向かって進んでいくのである。そしてまた、その対象との継続的な対話から、私たちはその対象との類似を得、不完全な状態から神々しき完成へとおだやかに至るのである。もし聖なる嘆願を神々から人間へと贈られたものと考え、またその嘆願が神々のしるしで、神々にしか知りえないものであって、なんらかの形でそれらも神々と同じ力を有していると考えるのであれば、嘆願が感覚的なものであって、神的なもの、知的なものではないなどと、どうすれば正当なこととして受け止められようか?人間の徳ある行いをもってしても簡単には清浄にならないところ[嘆願]に、どのようなパトスがあれば理性的に入り込むことができるというのだろうか?

だが「供物とは感覚と魂をもった対象に捧げられるものである」とも言われる。仮に供物が物体的な効力や複合体のみによって満たされるか、あるいはひたすら感覚器官に仕えるよう従属しているのであれば、それは正しい。だが、供物は非物体的なものにも、なんらかの論理、この上なく質素な基準において与るのである。その点だけでも、供物は適切なものと見なされるし、近くもしくは遠くから見て、なんらかの類縁性、類似性が認められさえすれば、私たちが今述べている当の接触が生じるのである。なぜなら、わずかでも神々に属するとされたものであれば、神々がただちに現れ結びつかないようなものはないからだ。したがって、「感覚や魂をもった対象」のためではなく、まさしく神的な形相のもとでこそ、[供物と]神々とのあたうかぎりの結びつきが生じるのである。この区別についても、以上で私たちは十分に反論した。