「情念・倫理学・主意主義」カテゴリーアーカイブ

構成主義vs本質主義

「情動」などというものは都度構成されるにすぎず、あらかじめなんらかの実体として本質的に存在しているのではない……。そういう主張を引っ提げて登場した一冊が、リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019)。これがなかなか痛快だ。著者は神経学者とのことだが、学際的なアプローチを取っていて、情動が最初から存在しているという「本質主義」の通念を打破すべく、「構成主義」を一般に通用させようとの意図のもと、実に多彩な具体例やたとえ話を適度に交え、さらにはその先の壮大な推論に向けて、読む側を力強く引っ張っていく。

「分類しているとき(中略)人は外界に類似点を見つけるのではなく、作り出す。脳は概念が必要になると、過去の経験によって得られる数々のインスタンスを、現在の目的にもっとも適応するよう取捨選択したり混合したりして、その場で概念を構築する」(pp.157-158)。目下味わっているしかじかの気分を表すために、なんらかの情動概念がその都度作り上げられ、それを指し示す言葉があればそれを適用する、というわけだ。このしなやかでダイナミックなモデルは、本質主義的で静的な、いわゆる「古典的情動概念」の対極にあり、たとえば異文化理解(異文化が示す別様の、ときにいっそうきめ細かな情動概念の広がりなど)に柔軟に対応できる。「情動粒度」と著者が名づけるそうしたきめの細かさこそが、そうした異質なものの理解のためのキーとなる。

このような「構築主義」をベースに練り上げられる思想は、なかなかに奥深いものになる。たとえば外界と自己との関係性。世界と脳とは、構築主義の立場に立てば相互に行き来することが想定される。自己と外界には、「おそらく境界は存在しない」(p.255)という。人間の「本性」というものすら、あらかじめ確たるものとして存在しているのではないかもしれない、というスタンスさえ導かれる。

一方で、あらかじめ確固たる本質が存在するという本質主義も根強い。なぜそうなのかにまで、同書は踏み込もうとする。「本質主義は強力であるばかりか伝染する」(p.266)と同書は言う。早い話が、本質主義は楽でいい、ということだ。細かな差異を大雑把なカテゴリーにまとめ、全部安易に同一性で括ってしまえば、それですべてわかった気になる。細やかな話を展開する議論ですら、そういう雑な括りで容易に歪曲できる……。これは科学の世界にも見られたことだった。かくして本来構築主義的(そういう言葉はまだなかったわけだが)だったダーウィンの理論や、情動のインスタンスを重視しようとした心理学者ジェイムズの議論が、たとえばデューイによって本質主義的なものとしてまとめ上げられてしまったりした経緯を、同書は紹介している。

なぜそんなことになるのか。「本質主義は直感に訴える」(p.269)からでもあり(しかしそれは構成主義からすれば思い込みでしかない)、「反証が非常にむずかしい」(p,270)からでもある(「今はまだ本質を発見できていないだけだ」とする希望的観測を出されては、論理的な反証は困難になる)。帰納という科学的な方法が「本質主義を誘導する」(p.271)面もあるという。脳科学でも、たとえば昔教科書などにも載っていた「ブローカ野」などは、幾多の反証にもかかわらず、心理的な機能を脳の特定部位に位置づけられるという、今では退けられている本質主義的仮説を流布させることに一役買ったという。

結局、本質主義に抵抗するには、細やかさへと開かれた知性をフルに育んでいくしかないということなのだろう。そのあたりには、共感するところ大である。同書の最後の数章は、身体へのケア、疾病の問題、法制度、動物とのかかわりなどの諸テーマについて、構成主義的な見方からの具体的な提言がまとめられている。

情動は在るか

そろそろ年末読書。というわけで、まずは「心の哲学」系の一冊。以下ややネタバレ。源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』(慶応義塾大学出版会、2019)。音楽聴取を題材に、美学的な問題を科学的に解釈し直そうという試みで、前半は心理学や美学の一般的な学説がまとめられている。本題の音楽の問いは後半から。ただ、全体的には諸説の再検討という面が強く、やや表題から期待したものとは違っていた。たとえば短調がなぜ悲しげに響くのかといった問題を扱うのかと期待していたのだけれど、そういう話ではなく(考えてみると、それでは心理学の本にしかならないわけだが)、音の聴取から曲想までを対象として、様々なアプローチを取り上げ検討し直すというものだった。

各章は、いくつかの仮説を呈示して、著者がそのうちのどれを選ぶのかを順次示していくというスタイルで書き進められている。かくして、まずは音の「実在論」が擁護され、また音の物理空間内の位置づけとして「遠位説」(音の発生源への位置づけ)が選択され、聴覚以外の感覚も動員されるというマルチモーダル説が採られ、さらに音楽が喚起する情動を、音楽の表出的性質に位置づけている。その情動のいわば下位区分として、たとえば悲しい曲を聴いているときの情動が解釈されるわけだが、同書ではそうした悲しさを一種の暗黙の意図的な錯誤と見なす「エラー説」を採択する。そこから、表題の問いに対する次のような答えが出てくる。悲しい曲を聴くときの情動の状態に、「悲しみ」と呼ぶべきものはないというテーゼだ。そしてまた、悲しい曲の表出的性質(悲しみ)とは何を意味するのかを探るべく、想像を介して「悲しんでいる人の特徴」をいくぶんか含み持つことを説明づける、類似説・ペルソナ説というものを取り上げている。

少し気になったのは、そもそも情動という定義づけも難しそうなものの実在性には、なんら疑いが差し挟まれていない点。心理学ではない「哲学的」な問いとしては、情動と称されるものにこそ「本質的にそんなものはない」という反論がありうるように思えるし、もしかするとそれこそが、反駁すべき最大の異論をもたらしそうな気もするのだが、どうだろうか……。

考えなしの時代

La Dépenséeジゼル・ベルクマンの論集『脱思考』(Gisèle Berkman, La Dépensée, Fayard, 2013)から、2章めとなる「昇華の不調」(Malaise dans la sublimation)という小論をざっと読んでみた。ベルクマンといえば、前にデュピュイの破局論を批判したりしていて面白かったのだが、今度はここでスティグレールの社会的な議論をやはり批判している。この小論、全体としては、思惟・思考のたがが外れあらゆることが「考えなし」(書籍のタイトルla dépenséeは、そういうことを指している)になっている現代をどう見るかという問題を扱っていて、スティグレールがそれを蛮行(bêtise)のカテゴリーの変容などとみていることに対し、そうではないのではないか、と問うている。少なくとも現行の意図的な「無欲」(non-vouloir)は、動物性と狂喜のはざまにあって執着する蛮行などとは別物の愚かさ(connerie)ではないか、もはやアドルノとホルクハイマーがかつて論じたようなものではないのではないか、と。さらには、シモンドンからドゥルーズへとつながる路線での解釈も当たらないのではないか、と。それほどに現代の状況は異質なのではないか、というわけだ。

旧来の蛮行とは違い、現代の「考えなし」はむしろ愛着の喪失(désamour)の側面が強い、とベルクマンは見ているようだ。愛着の喪失はつまりは情動の放棄を意味し、つまりは情動が昇華されて文化的事象へと転化されるという旧来の図式が通用しないことになる、と。スティグレールは超自我の権威の弱体化を見て取っているというが、ベルクマンはむしろ情動とその充足が直接つながってしまうことなどから、破滅的なダブルバンドが増大していることを重く見ている。そうであるならば、肝要なのは権威の強化などではなく、むしろ対象化の機能を取り戻すこととなる。方策として、何かを探求するような場合のその探求プロセスそのものの対象化などが示唆されている(やや抽象的な気はするが)。

ベルクマンはスティグレールよりも敏感に、変化の根がそもそも別筋である可能性を感じ取っているようだ。けれども理論化においてすぐさま精神分析の枠組みを出してくるなど、そのあたりはどうなのかという疑問もないわけではない。とはいえ、そうした精神分析的な図式においても別筋の可能性を呈示しようとしている点は評価できる気がする。そんなわけでベルクマンはなかなか興味深いのだが……まとまった邦訳とか出ないかしら?

ふたたび、政治と情動

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)2週間ほど、仕事関係でちょっと追われたせいで、ブログはあいだが空いてしまったが、ぼちぼち通常の活動に戻ろうと思う。というわけで、再び(みたび?)、政治の問題として情動の話。政治と情動を一続きのものとして扱う発想は、フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』(杉村昌昭訳、平凡社、2008-2016)でも共有される問題だ。この小著、原著は89年刊でありながら、政治的に無名時代のトランプが不動産王として、家賃の搾取などで貧困層を圧迫してホームレスを増産していることを批判した一節があり、一時期ネットでも話題になっていたように思う。改めて読んでみると、全体の話の流れは、相互補完的な三つのエコロジー(社会的エコロジー、精神的エコロジー、環境エコロジー)を再編し、社会・個人の実践を再構成しようという主張に要約できる。ここで言うエコロジーは、いわば様々な要因によって固着・汚染されしてしまった社会体・精神性・環境を、再び解きほぐして開放する、新たな主観性を編成する、という戦略を指すもののようだ。トランプの例などは、まさに社会における汚れとして扱われている(「別種の藻」がはびこっている、みたいに書かれている)。

三種類のエコロジーは相互に補完的で、それにより固定化した既存体制を再び「脱領土化」すると謳われている。ガタリの場合、社会的なものを重点的に取り上げはしていても、とりわけその中心的な問題領域をなすのはやはり精神的なエコロジーということになりそうだ。つまり、いかに情動の別様の管理、別様の編成を果たすのか、という問題。移民や女性、若者、高齢者などへの「隔離差別的な態度の強化」についてガタリは、それが「単に社会的抑圧の強化のせい」だけではなく、社会的作用因子の相対を巻きこんだ一種の実在的けいれん状態」(p.38)でもあると喝破する。このまさしくヘイトの問題では、憎しみの対象は、非現実的な「過備給」の対象にもなっていて、それは支配階級側だけでなく、下位階級にとっても同様だ、とガタリは言う。しかもそこでは、伝統的な社会制御の装置(調整を果たす諸制度ということか)は機能が悪化してしまい、いきおい人々は過去への回帰に賭けるようになってしまう、とされる。こうして非妥協的な伝統主義(極右ともいう)の台頭が準備されてしまう。ガタリはまた、抑圧的権力がいかにして被抑圧者の側にも取り込まれるのかも、社会と精神のエコロジーが立ち向かうべき分析的問題だ、と指摘してもいる(p.40)。打ち立てられるべきは新たな主観性、実在する各個人の特異性の生産にほかならない、右に倣えではなく、各人の差異こそが尊重されるように、と。

ガタリの本文は難解な用語が随所に用いられているけれども、要はこのヘイトの問題のように、今ある状態が実は追い詰められて生じた人為的なものであると解釈し、そういうものであるならば、それをほぐし、解放することも同じく可能なのではないか、ということを切々と述べている。そのために「エコロジー」を、単に環境問題の少数の活動家の思想に限定するのではなく、再編と再生をめざす一般的な運動へと変容させなくてはならないのだ、と。30年を経て、同書が実にアクチャルに読めてしまうような状況に現代社会が陥っていることは、ある意味残念でもあるけれど、同時にここで示されているような再編のプログラムを考え直すことは、今まさにここでの課題そのものでもある。

享楽と民主主義

ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論選挙が近づいたこの時期だからというわけでもないが、政治思想的なものを読みたいという欲求が再び募ってきた感じ。というわけでまずはこれから。ヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論』(山本圭、松本卓也訳、岩波書店、2017)。精神分析の一大エコールをなしたラカンその人には、保守的なスタンスをおもわせるエピソードが多い印象だけれど、ラカン左派はリベラル派の思想に精神分析のタームを適用して政治理論のようなものを作ろうとしている一派らしい。同書の前半は主要論者の理論の批判的な比較検討で、あまり面白くない。後半の、実践的・分析的議論のほうがわれわれ一般読者的には重要(かな?)。扱われるテーマはナショナリズム、EUのアイデンティティ確立の失敗、消費主義社会、そしてポスト・デモクラシーの行方などだ。

いかにも精神分析の本らしく、ナショナリズムを支える集団的同一化が強固になり、なかば固着するには、情動的な備給が必要であって、そこには欠如をともなった享楽(とその裏側としての否定性)が控えていなくてはならない、と説く。そうした情動面は通常の政治学的議論ではあまり取り上げられることがないが、それこそがアイデンティティを支え、またそうした情動面のケアやサポートがないからEU的なアイデンティティはうまく機能してこなかったのだ、と。そこからさらに、消費主義的なポスト・デモクラシーにあっては、享楽の再考・再編、来るべき享楽をこそ考察しなければならないのだということになる、と。

確かにそうした情動面への注目は、重要な観点だとはいえるだろう。現行の社会が陥っている、むき出しの暴力のスパイラルに抗するためには、そうした情動面、とりわけ享楽の問題系を捉えなおす必要があるのだ、というのはその通りかもしれない。先に挙げたプロティノスが、肉体がもたらす攪乱要因を制御するために「政治的」という言葉を使っていたことと、これはある意味で響き合うところでもある。けれども、ここで示唆されている情動をめぐる理論も、あくまで仮説の域を出るものではなく、その意味では、ラディカル・デモクラシーを突き詰め、「否定性と享楽に対する別種の倫理的関係」(p.334)、ラカンいわく「もうひとつの享楽」をもって、現行のポスト・デモクラシーを超え出でるという、同書が説く戦略は理論上の戦略にすぎず、具体的に何をどう組織していくことができるのかは明らかになってこない……。うーん、精神分析特有のわかったようでもありわからないようでもある(?)説明も含め、このもどかしさをどうしてくれようか、というのが読後の直近の感想だ(苦笑)。