「学知論」カテゴリーアーカイブ

バディウのプラトン回帰について

積読になっていたアラン・バディウの小著『哲学のためのマニフェスト』(Alain Badiou, “Manifeste pour la philosophie“, Editions du Seuil, 1989)をざっと読む。バディウが90年代以降プラトンに回帰していたらしいことは、講義録のタイトルなどからもわかるけれど、内実としてはどういうことなのかが個人的に今一つはっきりしていなかったように思う(講義録のその巻は未読)。というわけでこの小著。哲学を成立させる基本条件としてバディウは4つの要素を切り分ける。それらは詩、数式的なもの(mathème)、政治的なもの、愛だというが、そのいずれもが、近代の哲学史においては、隣接する学問分野などのジェネリックな手続きに委ねられてしまい(これをバディウは縫合(suture)と称する)、機能をブロックされてしまっている、という。

そうした見立てにおいて、いかに哲学を復権させるかがバディウにとっての問題となる。それはつまり、現代において4つの条件のそれぞれに生じている、未規定で不定形の新しい事象の出現(これをバディウは「出来」(événement)と称しているようだ)に、概念的な布置を与えることを通じてだとされる。数学者ポール・コーエンの「ジェネリック」概念、ラカンの愛の理論、68年の5月革命に忠実な政治的なもの、そしてパウル・ツェランの詩などが、ここでは出来する事象として挙げられている。

そうした4条件の考察はいずれもプラトン的なものだ、とバディウは言う。それらはすべて、内容的な違いはともかく、プラトンが考察の対象に据えた(哲学の領域から締め出すかどうかはまた別の話)ものでもあったからだ。若きソクラテスがソフィストらのもとで学び、次いで彼らを批判的に乗り越えていくことが、ここではバディウの考える「縫合の時代から哲学再生の時代への移行」に重ね合わせられている。ニーチェ以降、一度はソフィスト的なものの側に傾いた哲学の営みを、再びプラトンの側に引き寄せる試み、ということか。

蓋然論は客観的?主観的?

前回記事のデカルトの懐疑にも通じる話だが、数学的に語ることもできる確率論や蓋然論は、客観的なものと断じてしまってよいのだろうか、という疑問がある……。というわけで、フランスの『カイエ・フィロゾフィック』の18年度第4四半期号(Pensée statistique, pensée probalibiliste (Cahiers philosohiques), Vrin, 2018)を読んでいるところ。これに、論考としては異例というか、ある意味面白い試みの一本が掲載されている。アレックス・ビアンヴニュ「蓋然性の出どころは客観的か主観的か」(Alex Bienvenu, ‘La probabilité a-t-elle une source objective ou subjective ?’)というもの。

あらかじめフィクションとして断った上で、ハンス・ライヘンバッハとブルーノ・デ・フィネッティとの架空の対話を描いてみせている。ライヘンバッハは科学哲学、デ・フィネッティは統計学者で、ともに20世紀前半に活躍した実在の学者たち。両者の間には実際に書簡のやりとりもあったといい、1937年6月にライヘンバッハはアンリ・ポワンカレ研究所での講演会に出、その2年前の同じ時期には、やはり同じ研究所で、数学者エミール・ボレル主催の蓋然性をめぐるシンポジウムにデ・フィネッティが参加しているという。ここから、若干時空を超えて(笑)、二人が直接に対話したらどんな感じだったろうかと、紙上で想像したのがこの論考というわけだ。両者の考え方のエッセンスを、スケッチ風に切りだしてみたという趣意らしい。

ライヘンバッハは、経験論的な事象がもつ蓋然性(発生確率)を一つの「賭け」(判断)であるとしつつ、それは主観的なものではないと論じる。「賭け」そのものは、判断の主体による推論が前提となるので、それは主観的なものだけれど、そうした事象が経験論的に正当なものとされるには、一般化された、非人称的な認識主体であればよく、そうした主体が下す判断はもはや通俗的な意味での主観ではない、というのだ。これはつまり、まだ生じていない事象は不確かではあるけれど、これまでの経験論的な過去データにもとづく蓋然性でもって、その事象の確かさが推定できる(発生確率がなんらかの値に近づくことが、過去データから推測される)場合には、それは確かなものに準じる扱いをすることができ、その意味でもはや主観的なものではなくなる、ということだ。

けれどもデ・フィネッティはそれに納得しない。まず、蓋然性とは発生確率が近づく限界値だとするなら、そうした限界値を想定すること自体が経験論的だ、というのが一点、別様の、より操作的な蓋然性の経験論を定義することも可能だ、というのがもう一点だ。経験論とは観察で検証できるもののことだとするなら、ある命題について賭けを設定することが、その命題の蓋然性を主体がどう評価するかを表すことになる(勝ち金に応じて掛け金をいくらにするかが、発生確率についての「信」の程度を表すように)、というのがその考え方。これはつまり、汎主観論的な立場だということになる。

科学において蓋然性は客観的なものと考えてよいというライヘンバッハと、科学においても、いかに過去データや専門性に支えられていようと、問題となるのは「信」の程度なのだとするデ・フィネッティ。なんとも悩ましい対立だが、案外両者の立ち位置は近いところにあるように思われたりもするし、論文著者の意図もそのあたりにあるように思われる。司会のボレル(おそらくは論文著者の分身)は両者の議論が「経験論」の定義そのものにまで波及することを指摘して対話を締めくくっている。

翻訳実践と学知

翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動スコット・L・モンゴメリ『翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動』(大久保友博訳、白水社、2016)の第一部と第二部を読んでみた(全体は三部構成で、残る第三部は現代の数学の翻訳事例や共通語としての英語の問題が論じられるようだ)。第一部は天文学の文献を題材に、古代ギリシアの学知がいかにアラビア圏に翻訳され、さらにそれが中世ラテン世界に入っていったかを、比較的細かく描いたもの。第二部は一転して、近世から近代にかけての日本での、西欧の自然学の受容について論じたもの。全体を繋ぐのは、それらの学知の流入が翻訳という営みによって支えられていたという点で、同書はその翻訳の諸相を割と細かく描き出そうとしている。とはいえ、第一部はあまりに広大な歴史空間であるだけに、史的文脈・人的交流についての概論的な記述だけでも膨大な分量になってしまい、個別事例として挙げられた天文学的文献についての記述が制限されているきらいもある。実際、天文学的文献の翻訳に関する具体的事例はありまなく、言及されるおのおの文献そのものがどういった体のものだったか(先行する文献とどう異なっているか)とか、天文学そのものの進展といったあたりは、同書を見るだけでは今一つ浮かび上がってきていないようにも思われ、それが少しばかり残念だったりもする。

けれども、翻訳という側面についてクロースアップしているところは、邦訳の類書がそれほどない中でとても貴重ではある。個人的にはアラビア語訳に先立つ、ギリシア文献のシリア語への翻訳、ネストリウス派の独自の去就、というあたりがとくに興味深い。また、中世ラテン世界からルネサンス初期についての記述でも、西欧がおのれの遺産からアラビア経由の痕跡を積極的に消していった、というあたりの話は際立っている。原典主義がいわばイデオロギー的に確立していくなかで、アラビアの文献を派生物扱いとする野心が煽られ、ギリシアを祖と見る「権威」のシステムによって、たとえばアリストテレスは単なる「テキスト集成」にとどまらず、テキストの祖として逆接的に価値を高めることになる、と。

第二部の日本の話になると、スパンが限定されているせいか、通史的な視点と具体的な翻訳事例とのバランスはぐっと良くなる気がする。そこでの主眼は、日本における西欧のテキスト受容が、中国語文献の受容の延長線上にあったという話(連続の相で見ているところに、この場合は好感がもてる)。初期の、イエズス会士による中国語訳文献の流入から始まって、そのフィルターが結局は西欧の初期近代科学が中国に伝わらなかった阻害要因だったという話、さらにはそのことが、日本が朱子学的(国内で換骨奪胎され土着化した)教養をもとに、中国とは別筋に、思想というよりも技術面で西欧の知識を取り込む素地をもたらしたことなどが、その語りのメインストリームをなしている。それに続く、訳語に見る科学的言説の形成の話も、とても興味深い。本木良永による太陽中心説の受容、志築忠男とニュートン物理学、石川千代松による進化論、そして宇田川榕菴による化学……。極めつけは、その榕菴による元素名の訳語の話。これが序章の冒頭で示されている日本の元素表の独自性の話とつながって、ここでいったんループが閉じられているようにさえ思える。

「二重真理説」異聞 – 1

Pour une Histoire de la 例によって、このところまとまった時間が取れないのだが、空き時間にリュカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une Histoire de la “Double Verité” (Conférences Pierre Abelard), Vrin, 2008)を読み進める。とりあえずまだ前半のみ(二章まで)だけれど、これもまた実に面白い一冊。哲学的真理と神学的真理があるといった、中世盛期において糾弾される考え方が、当時本当に広まっていたのかという問題については、その旗振り役だったとされるブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスなどの研究が近年進んだこともあって、必ずしも彼らがそうした議論を信奉し教えていたわけではないとの下方修正がなされ、しまいには「それは一種の虚構的な教えであって、中世の論者たちはそんなことを決して教えてはいなかった」との見解でにまで至っているという。でもそう聞くと、これもまた、曲がった棒をまっすぐにしようとして逆に曲げてしまうようなところもなきにしもあらずではないか、というくすぶり感が残りもする。その点を少し詳しく検証しようというのがこの著書だ。

確かにタンピエの1277年の禁令以来、パリ大学などの神学的な教えはある程度一枚岩にまとまった感もあるようだ。ただ著者はそこでちょっと意外な角度から問題にアプローチしていく。まず最初の章で取り上げられているのは、17世紀末から18世紀にかけて活躍した哲学者ピエール・ベールの例。歴史的に、アヴェロエス主義の副産物のように言われている二重真理説を、ベールはなんと宗教改革のルターに帰しているというのだ。で、著者によれば、確かにルターはパリ大学を中心としていた教説、「哲学と神学で、真となるものは同一である(idem esse verum in philophia et theologia」という教説に反対する立場を取っている。と同時に、15世紀の神学者ピエール・ダイイの「真理の協和」理論などを高く評価している。この真理の協和理論の格言「すべての真理はすべての真理と協和する」(omnia vera vero consonant)は、実は13世紀後半以降、『アリストテレスの権威』(Auctoritates Aristotelis)なる当時もてはやされた詞華集によって広く拡散したのだという。もとはグロステスト訳のアリストテレスの文言だというが、この詞華集のせいもあってか、もとの意味はだいぶ曲解されて伝わっているという。本来は、任意の賢者が真理について下す判断が誤っていたとしても、それはその賢者の判断対象が不確かな領域にまで踏み込んでいるからであって、正しい判断さえあれば真理は真として判断されうる、といった二重真理的な意味合いなのだというが、広まったバージョンはむしろ、パリ大学的な、一元論的な真理の格言となっているらしい。この後、1277年の禁令解釈が流転する様子が検討されている。

第二章になると、今度はまず「二重真理(duplex veritas)」の言葉が使われる実例を探る。そこで出てくるのは、一つにはこれは4世紀のマリウス・ウィクトリヌスにまで遡れるという話。その後12世紀から15世紀まで、その言葉はいわゆる二重真理説そのものとは違う意味において、たびたび使われていく(トマス・アクィナスにもあるとのこと)。その後、真偽の中間領域(未確定領域)の存在を主張する15世紀のピエール・ド・リヴォなどの議論があり、これを同時代のギヨーム・ボーダンが二重真理説であるとして批判する。この両者(自由学芸の教師vs神学者)の間には熾烈な論争があったという。このリヴォという人物も興味深く、従来の「創造された」真理と「創造を経ていない」真理の区別のほか、哲学的真理と民衆的・世俗的真理という問題含みな区別を掲げ、この後者を、一部の命題(不確定な偶有的未来に関する命題)は哲学的には真でなくとも神学的には真でありうるという考え方に結びつけているのだという。