経験知・暗黙知と理想化

思うところあって、ハロルド・ギャティ『自然は導く』(岩崎晋也訳、みすず書房、2019)をざっと読んでみた。自然のただ中で迷った際に、様々な事象がナビゲーションのヒントをもたらしうるということを、具体的な事例で解説してみせた古典。最初の数章が概論で、残りはテーマ別に具体的な事例(やや散漫な感じもしないでもないのだが)を挙げていく。ポイントは、訓練を積むことで観察眼を養い、ナビゲーションに役立つ自然からの情報を目ざとく取得できるようになるということ。経験知がものを言う分野なのだが、おそらくそうした訓練も、どこか暗黙的な経験の積み重ねによるものと思われる。親世代の田舎の老人たち(今80代くらいの人々)には、ローカルとはいえ、山菜やキノコ狩りのために道もないような山に入って迷わず戻ってこれる経験知が少なからずあった気がするが、同書で記されていることのなにがしかの部分が実践されていたのかもしれない、なんて思ったりするのは楽しい。

ただ、そのような暗黙知のような経験知を、本のようなかたちで書き出してしまうと、何か微妙な違和感を感じたりもする。多少とも抽象化されていて実物からはかけ離れてしまうカラーの植物図鑑の絵のように、それを実地の見分に応用するには、こちらの想像力で補うしかないかのようだ。長らく忘れていた、そうしたギャップを、久々にまざまざと思い起こすことになったが、それこそが同書を今読む大きな利点かもしれない。

少し前から断続的に読んでいる桑木野幸司『記憶術全史――ムネモシュネの饗宴(講談社選書メチエ)』(講談社、2018)も、同じような感触を喚起するものかもしれない。記憶術の基本として、基本的には場所(ロクス)や格子のような「入れ物」を思い描いて、それに記憶する対象をはめ込んでいく、などと言われる。伝統的にもそういう記述がなされてきたし、曖昧ながらそれはそれで納得できる部分もある。けれども優れた記憶をもつ人が実際に行っている心的操作というものは、具体的な方法を問われて語っているそうした形象ほど、明確なロクスなり格子なりの入れ物を形作っているのかどうかは定かでない。記述というものは、どこか理想化され抽象化されたものである可能性が、どこまでも残るものなのかもしれない。史的な記憶術の記述も、どこかそうした根本的な語りの作為性のようなものを引きずっている気がする。もちろん個別の記憶術の書は、この研究書が示すように、それ自体として興味深い図像学的対象でもあるだろうし、そこから分類法とか、百科全書的な方向、博物学の方向へと開かれる伝統をなしてきたのだとしても。同書が取り上げる図版の数々にしても、多くはある種の理想化を施したものではないのか、庭園の図などが実際の庭園をそのまま描いているのではないのではないか、といった疑問も浮かんでくる。当時の図版がどれほどの理想化を施したものなのか、査定するすべはあるのだろうか?

とはいうものの、それとは別の意味で同書もまた貴重ではある。つまり、16、17世紀の記憶術本の概要をいくつか載せている点だ。ロッセッリ『人工記憶の宝庫』、デル・リッチョ『記憶術』などなど。重要文献であっても翻訳出版など望むべくもないものを、概略的にではあっても伝える労苦は称えられてしかるべきで、一般向けの人文書は、まさにそういうところで命脈を保っていく使命があるようにも思う昨今である。