流用・逸脱としてのアート

最近、少し読書活動も低迷ぎみだが、まあぼちぼちとやっていこう。少し前にエリザベス・グロス『カオス・領土・芸術』(檜垣立哉ほか訳、法政大学出版局、2020)を読んだ。原著は2008年刊。ドゥルーズなどをベースとして、いわば大上段からの芸術存立論を放つ一冊。たとえば「身体が大地、自然、世界から先行的に分離することを要求する、より原始的な所作こそが、芸術の最初の所作」(p.18)であるとか、音楽を「性的特殊性をもつ生きられた身体を大地の力へと結びつけるような、コズミックでカオティックな力の他なるものへと生成として」(p.48)理解したいのだとか、「リトルネロとは身体と共振し、身体を強度化する領土を、カオスから囲う仕方である」(p.34)とか……。カオスからの領土(囲い地)の切り出しとしての芸術の存立論か。それが変奏として、建築や音楽、絵画へと、音楽でいう「本来の」リトルネロ(声楽曲で合間に反復される器楽部分)さながらに繰り返されていく。しかしながら、今となっては、多少ともアーティスト的な共有事項になっているのではないかと思われるような(つまり昔よく聞いたような)文言でもある。社会的にどうなのかはわからないけれど、少なくとも個人的には、もっと対象に肉迫した現在形の芸術論が読みたい。大きな見取り図よりもむしろ、もっと具体的な立脚点からの鋭い考察を読みたい。

そんな意味では、今読みかけの前川修『イメージのヴァナキュラー:写真論講義実例編』(東京大学出版会、2020)などのほうが、個人的な今の気分にはよっぽどフィットする。たとえば第一部。写真を書籍として出版した嚆矢としてのトルボット(1800 – 77)について、写真発明期の錯綜や彼の独特な考え方などを多面的に論じている。やはり細部こそが重要だ、と改めて思わせる。なんらかの技術、なんらかの対象物が生み出されると、必ずやそこになんらかの流用、なんらかの逸脱が生じていき(それはあらゆるものの必然なのかもしれない)、別様の意味をまとい、場合によってはある種のアートとして成立し、やがて流通していく。批評・論評もまた、そういう力動にこそ寄り添っていってほしい気がする。

天候の前兆とテオフラストス

何日か前だけれど、テオフラストスの『天候の前兆について』『風について』の合本希仏対訳本(Théophraste, Les Signes Du Temps. Les Vents (Collection des universités de France, Serie Grecque), trad., Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2019)から、最初の『天候の前兆について』を通読する。前兆現象というほどではなく、たとえば動物、とくに鳥などの、鳴き方や鳴くタイミング、あるいは飛び方などによって、雨風が近いとか、天候がよくなりそうだといった、いわゆる世俗的な知識・知恵をひたすらまとめたもの。原因や理由についての考察はないが、羅列されるそれぞれの内容はなかなか興味深い。

こうしてみると、改めてテオフラストスは「コレクター」なのだなということがわかる。一種の収集癖。この本の解説序文では、テオフラストスはボタニストであるとか、エコロジーの始祖であるとか、アリストテレスが理論に走るのにテオフラストスは経験を重視している、とかいった話が記されているけれど、テオフラストスの本質はずばり「コレクター」。これに尽きるように思われる。『人さまざま』(『性格論』とも訳される)もそうだった。そのあたりからすると、ボタニストやエコロジーの始祖といった評価は、どこか一面的すぎるように思われる。コレクターと捉えることで、むしろテオフラストスのコレクション志向について、そうした志向を導いているものは何なのか、何を基準としてどのように集めているのか云々、といった問題が浮上するが、むしろそれこそが、研究対象として面白いような気がする。

ナッジ本

前から気になっていた「ナッジ」。これについての論集が出たと聞き、早速見てみた。那須耕介・橋本努編『ナッジ⁉――自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(勁草書房、2020)。ホームの転落事故を防ぐために、ホームのイスの並びを両端に対して直角にするとか、手に取ってもらいたい商品を、どう配置すれば手に取りやすくできるのかなど、基本的に、なんらかの行動を促す、ちょっとした傾斜をかける技法を言うわけだが、当然ながらこれは、どこまでが有効なのかといった問題のほかに、しかける側の意図はどう正当化されるのかとか、個々人の自由というものはその場合にどうなってしまうのかとか、いろいろな問題を含んでいる。

ナッジが登場してきたおおもとには、政府が個人の嗜好に干渉してはならないというアメリカ的な自由の考え方があり、それでいて個人の合理性が実は脆弱であるというもう一つの考え方から、意思決定を補うためのパターナリズムという考え方があり、両者が結びついて(あるいは両者の妥協として?)リバタリアン・パターナリズムというものが生まれてきたのだという(第1章)。ナッジはそうした考え方を具体化する技法として編み出される、と。そんなわけだから、それはある種の政策手段と見なされ、小さい政府の考え方に立脚した、やや偏狭な自由主義的政治思想でもあるようだ。

しかし、「人びとの選択に介入することなく、ソフトに人びとの選択を善導していく」(p.26)ことには、様々な問題点がありうる。上の二つの考え方は、選択における熟慮の必要と、そのための教育の必要(第7章)といった問題を裏面としてもっているように思われる。実際同書もそうした点を強調している。ナッジは基本的に選択アーキテクチャなのだから、そのままでは、アーキテクチャから排除されている選択肢に思いを寄せる契機がない(第3章)。だからこそ、選択肢を選ばないというオプトアウトのあるアーキテクチャの健全性や、「アスリートモデル」(ロールモデル)に依拠した別様のアーキテクチャの可能性(第6章)は、とても重要な指摘となってくる。

ナッジは自由主義にかかわるものだけに、制度論的な話も避けては通れない。個々人の行動をコントロールする際に、個体を単位として直接的に規律するという場合もあれば、社会全体の中の構成単位の行動に一定の適切性があればよい(二次的多様性)という立場ももちろんありうる(第4章)。前者はナッジ的な解決が絡むが、後者はむしろ代議制・代表民主制が担う別様の方法ということになりうるのではないか……。このように同書は全体として、ナッジの外部を絡めてナッジを批判的に考察する奥行きのある論考となっている。