個体化論は哲学を書き換えうるか

一昨年刊行されていたジルベール・シモンドン『個体化の哲学--形相と情報の概念を手がかりに』(藤井千佳世監訳、近藤和敬ほか訳、法政大学出版局、2018)。シモンドンのこの書(もとは1958年の博士論文)、内容的には大きく前半と後半に分かれ、前半では技術的事象の個体化、後半は有機的事象の個体化を扱っている。かなり以前に、前半と後半の一部(生命論のあたり)を原書のほうで読んだことがあったが、諸般の事情で後半の残り部分は放ってしまっていた。そんなわけで、ようやくその心理的事象を扱った部分(事実上の第3部か)を、この邦訳で見てみることにした。この書そのものは、個体が発生してくる力動的な位相に着目し、そのプロセスを一元論的に捉え、それを足場として従来の哲学的な諸概念の書き換えを目するという、実に壮大な可能性を感じさせる一篇だ。それだけに全体を通じて晦渋であり、すんなりといかない。邦訳でも同じことだが、そこを少し我慢して読み進めると、刺激的な世界が広がっているのがわかる。というか、その重要性が色あせていないことを改めて思う。

ここでの個体化とは、生成、発生、展開などを含む抽象概念で、不安定な環境から個体が、その不安定さを解消するために「せり上がってくる」(自己構成する)こと、個体のいわば一般的な前景化を言う。個体が発生することによって、個体を取り巻く環境とその個体そのものには、個体発生前の状態(前個体)と、個体発生後の不安定・不完全な状態(超個体)が生まれ、そのような分化によって「意味作用」が生じる。構成された個体(人間の場合)には、結果として個体内部から環境を眺める位相、すなわち「主体」ももたらされる。個体化に次いで今度は個体の内部で「個性化」が永続的に繰り返される。個体化と個性化の永続性の一貫性を担うものとして「人格」も成立する(第二部二章「心理的個体化」より)。

シモンドンが提唱するこの抽象的な図式をもとに様々な問題を捉え返すと、従来の考え方では不十分だという点が多々出てくることにもなる。個体化論は発生的な面を捉える真の一元論に位置づけられることから、翻って、たとえば心身二元論への抜本的な批判がありうる(ベルクソン哲学への批判)。唯物論的な一元論、唯心論的な一元論すら、実際には非対称的な二元論にすぎないとして一蹴される。また、個体発生は認識論やそれにともなう存在論に先立つとされ、むしろ個体の存在についての考察こそが、認識論に先立つものでなくてはならないということにもなる(デカルト哲学への批判)。集団論(社会論)もしかり。集団は諸個人が信念や神話を共有することによって成立するのではないとされる。信念は「グループの分離や変質の現象」(p.494)でしかなく、実在しておらず、同様に、集団を支えるとされる神話や臆見も、実は「グループの個体化の操作が力動的かつ構造的に延長したもの」(同)にすぎない。そもそもグループ自体が二次的な個体化にすぎず、個別の諸個体を重ねたものでしかなく、その意味でグループに属さない孤立した個体も、必ずしも不完全なものとは見なされない(否定されない)。「人間は社会的動物」というテーゼに、これはある意味真っ向から対立する(アリストテレス哲学への批判)。

同じように、自然が人間に対立するという考え方も否定される。自然はむしろ存在の最初の位相であるとされ、個体と環境の対立は二次的な位相だという(p.504)。自然は全体に対する個体の相補物、個体が不完全さを克服するために必要とする残余、個体を超え出るものだ。時間論も個体化の理論に立脚すると別様の図式になる。現在こそが過去との未来のあいだの転導をなし、過去と未来に対する意味作用をなす、と。言語についてもしかり。言語が人間に意味作用の獲得を可能にすると述べては不十分だ、と断じられる。言語を支えるための意味作用が先行して初めて、言語がありえるのだ、と。言語は情報を運ぶものにすぎず、意味作用は個体化がもたらすそのものである、と。情動もしかり。情動は個体化された存在の構造のうちにはなく、「集団的なものの個体化において意味作用として発見されるポテンシャル」(p.520)なのだ、と。

……このように、シモンドンは実に広範な議論の書き換えを提唱する。個別の議論はほとんどメモ書きのようでもあり、読む側がそれぞれ深めていくしかないように思われるが、いずれにしても新しい刺激的な(当時も今も)哲学的視座がここにはヒントとして示されているといってよい。それはまさにプロセス実在論と呼んでよいものだろう。