断絶の歴史観?

話題作らしい佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010)を読む。著者に倣うなら、読むというのもおこがましい読みだけれど(苦笑)……。革命というか、歴史の大きな転換点の端緒には、自己の異化にまで及ぶような強烈な読書体験というものがあった、それを今一度復権させようというのが全体的な流れということになるのかしら。主に取り上げられるのは、ルター、ムハンマド、そして「中世解釈者革命」。いずれについても、書を読む、しかも徹底的に読むという構え方が、後に大きな変革をもたらすきっかけになったという話でまとめられ、その場合の読み方自体がテーマとして取り出されている。なるほど、歴史をそうした断絶でもって読み解くというのは、同書の刺激的・挑戦的な物言いとも相まって、注目の著者ならではの気炎という感じもする。でもその一方で、同じ歴史的な事象はより連続的にも捉えられる。断絶というのはあくまで後知恵にすぎず、後から加えられる様々な付帯的状況によって断絶の効果が演出されていったのであって、たとえば聖書の徹底した読み直しを実践していたのはルターだけではなかったではないか、みたいに。

一般的に、先鋭的な思想や批評はその華々しさもあって断絶に重きを置くのに対し、実直な史学などは連続のほうに重きを置く(かな?)。多くの場合、断絶を喝破してみせる刺激的な言説のあとには、そうした連続的な視座による事象の検証が続く……。そういう観点から眺めると、同書の要になっている「中世解釈者革命」というものの実情はどうなのか、という部分が若干気になってくる。これはルジャンドルがもとだそうだけれど、ルジャンドル自身がフランス思想的な物言い(あるいはフランス的放言?)を駆使する人物という印象もあり、個人的には、その文章も慎重に見ていく必要がありそうな気がしている。グラティアヌス教令集に結実する教会法の鍛え上げが、ユスティニアヌス法典の「再発見」によると果たして言い切れるのかどうかとか、微妙な気がする。ローマ法自体はある意味早い段階から教会法に取り込まれる形で細々と伝えられていたとも言われるし。

うむ、いずれにしてもグラティアヌス教令集もある程度ちゃんと読まないとなあ、と改めて思う。ちなみにこのグラティアヌス教令集(Decretum Gratiani)、ネットでならたとえばこのサイトでダウンロード可。またユスティニアス法典(Codex Justinianus)はたとえばこちらScribdのサイトなどに。

「断絶の歴史観?」への2件のフィードバック

  1. 福嶋亮大氏が本書にかなり手厳しい批判をしておられました。
    ttp://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html

    私自身も福島氏の方に同意するところがあります。

  2. 福嶋氏の批判を読んでみました。中世解釈者革命による情報の浮上というあたりは、確かに同書のもっともわかりにくかった部分という印象です。個人的には、中世とポストモダンを短絡することなしに、中世がもつ現代性というか現代的意味を改めて考えたいところです。ありがとうございました。

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