こんなときだからこそステップバックを

これを読むことは、ある意味とてもタイムリーだと思われる。中世思想の研究者、八木雄二氏による、文字通り「試み」としての哲学的「エッセイ」、『生態系存在論の構築』(知泉書館、2004)。三部作のうちの「中編」にあたるもの。現代社会の科学技術への依存・過信の大元は、突き詰めるとアリストテレス的な原因の理解に行き着く、と著者は言う。物事の存在を、アリストテレスは機能主義的なものの見方で捉えようとし、それが西欧の科学技術を開く端緒になってたという議論は以前からある(割と新しい例ではシモンドンなど)。実際のところ、物事(対象)を原因にまで分解して組み直すということは、つまりはその対象を理解し制御することにつながるわけだ。けれども、今回の原発事故が示すように、それは必ずしも十全たる制御を約束しない。それはなぜか。そこには人間という種の限界についての考察が欠如しているからではないか。的確な認識が得られていないからではないか……。著者はかくして、アリストテレス流とは別の「存在理解」が必要だと説く。それはつまり、「ある」をそのまま肯定的に受け取るという理解、パルメニデスの存在論だ。

パルメニデスの存在論を、著者は現代の知見を絡めて練り直そうというのだ。なんとも意表をつくステップバックだ。しかも意外さはそこにとどまらない。パルメニデスの断章は詩的で難解なものだが、著者はそこで語られる「ある」がままの存在を、人間を根本的に成立させているもの、すなわち生命という事象、生態系をなす生命環境の総体に重ねてみせる。こうして同書では、パルメニデスと生態学というこの一見唐突な組み合わせが、ある種の強度をもって語られていく。「競争原理は種の進化を説明しない」「人間は複雑化した生態系の整理のためにもたらされた種ではないか」「植物こそが種の王座にあるのではないか」「生命研究には目的因の視点がいまだに有効ではないか」などなど(以上は原文の通りではないけれど)、刺激的な放言の数々が、雄弁かつ理知的に繰り出されていく。空論ではないかとか、教条的なエコロジーの議論ではないのかといった反応もあるかもしれないが、ここにはそれを押して余りある知的なしなやかさ、思索の糸口があるように思う。もちろん、活かすも殺すも読む側次第。原発事故がつきつけているのは、単に経済とか生活様式とかの問題ではないかもしれないことを、この際だから真摯に考え直したい。