トマスの場合の「神認識」

スティーブン・L・ブロック「無神論は合理的でありうるか−−トマス・アクィナス読解」(Stephen L. Brock, Can Atheism be Rational? A Reading of Thomas Aquinas, Acta Philosophica, vol. 11 (2002))という論文。中世と無神論というのはなかなか結びつかない部分だけれど、著者は中世が現代人の無神論についてなにも教えをなすことがないというのは間違いだとし、この論考では『神学大全』『対異教徒大全』から関係するリファレンスを読み解いこうと試みる。その中には、たとえば人間の魂に内在する神認識の問題なども含まれていて、そのあたりがまとめとしてなかなか興味深い。トマスの場合には、神の存在は「おのずと」知られる真理なのだといい、その認識はごく自然に(本性的に)なされると考えられている。つまりそうした真理の認識能力が人間の魂に内在していて、それは聖霊によってもたらされる恩寵だとされる(これはフランシスコ会系の照明説その他の議論も基本的には同じだ)。その一方で、当然ながら人間が獲得する知識(認識)には論証のプロセスを経るものもあるわけだけれど、トマスの議論ではその両者は矛盾するのではなくむしろ相補的だとされる。誰にでも備わった認識能力と、論証的にそれを追認・確認する能力というわけだ。そうすると、誰もが神を認識できることになり、そこに無神論というか、否定的な見識が生じる可能性はなくなってしまう。けれども、ということは、物事にはかならず肯定的と否定的の二面性があるという原理に反してしまうのではないか、という疑問が出てくる(著者曰く)。

で、ネタバレになるけれど、ここから著者はトマスの言う「愚かさ」(stultitia)を検証する。トマスにおいては神の(認識の)否定は必ずや賢慮の反対語となる愚かさと結びついている、と。では合理的な思考から無神論を導こうとする場合も、やはり愚かさが関係するのか?トマスはそのあたりを明示してはいないとして、著者はトマスに立脚し、ありうべき(笑)答えを想像してみせる。このあたりは良い意味での「遊び」。でもそれこそが、中世思想を今ここで再検証することの楽しみにもなりうるし、積極的な有意性をもたらすことにもなりうるんじゃないかなとは思う。

↓wikipedia(en)より、トマスの『神学大全』の写本