再びアウグスティヌス

先に挙げたマリオンのアウグスティヌス論『自己の場所に』は相変わらず少しづつ読んでいるところ。3章目が終わって全体のほぼ半分。デカルト的な確たる自己というものを措定しきれないアウグスティヌスは、そこに大きく口を開けた深淵、「自己」への到達不可能性を見いだす。記憶すらも、認識・思考の「自己」への現れを担うとされ、「自己」は遅延へと先送りされる……。その場に浮かび上がるのは幸福な生への「望み」だが、その望まれる対象もまた、望まれることによって成立するという構図で、見いだされるのはマリオンの言うところの「飽和した現象」ということに……。執拗なまでに現象学的な言葉に置き換えられるアウグスティヌスのテキストは、なんだか広大な海のようにも思えてくる。『告白録』が導きの糸ではあるけれど、マリオンは様々な著作からの引用でもってそのいくつものうねりを作り上げているというか。うーん、圧巻。まいった。

……すると逆に、そうした置き換えとはまた別のアウグスティヌス解釈も読みたくなってくる。と、その関連もあって、新たに加藤信朗『アウグスティヌス「告白録」講義』(知泉書館、2006)も読み始めているところ。これは『告白録』を、(著者言うところの)心理主義的解釈ではなく、構成的解釈でもって読むという趣向の講義。自伝的部分を神から離れまた帰るという二段階の過程として捉えるというスタンスを提唱しているわけだけれど、これは新たなスタンダードかもしれない、と。こちらもまた、タイプの異なる丹念な読み込みから、後半部分では哲学的な問題へと踏み込んでいくようなので(「メモリアの中での神の場所」という章題がすでにして示唆的だ)、とても楽しみ(笑)。