「善の研究」

これまたマリオンのアウグスティヌス論からの流れで、少し気になるところがあって西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)をずいぶん久しぶりに読み直した。言わずと知れた、西田哲学の初期のころの代表作(なにしろ初版は1911年)。で、あらためてその先進性に打たれる(笑)。主客の未分化状態へと言及する第一編「純粋経験」や第二編「実在」などはまさに「飽和した現象」に通じるし、あるいはまた、「精神」といった概念装置を外して考えれば、「統一力」といった概念などはドゥルーズ的なプロセス実在論の言い換えのように読めてしまう。第三編「善」は倫理学的考察だけれど、そこで出てくる「国家」(あるいはその次の「宗教」も)などのタームもまた、別様に読み替えていくことができるのではと空想してみたり(笑)。そういった方向での西田哲学研究の現況についてもちょっと調べてみたいところ。それにしても今見てみると、第四編「宗教」を中心に、アウグスティヌスが引かれているのはもちろんのこと、ドゥンス・スコトゥスやエックハルト、クザーヌス、ヤーコブ・ベーメなどが引き合いに出されている点もとても興味深い。あとスピノザとか。

「「善の研究」」への3件のフィードバック

  1. 最近当地でもNishidaの伊訳が幾つも出ています。
    Uno studio sul beneなんて訳されると、スコラ学かと思い違いするほど。特に、「行為的直観」がL’intuizione arrivaとしてMatteo Cestariによって訳されていますが、これなどこの伊訳から邦訳に重訳するとまるで能動知性論のように思われたりします。

  2. ごめんなさい、L’intuizione attivaです。
    ちょうど拙ブログでその重訳をやってみようかと思っていたところだったもので...

  3. フランスあたりでも訳本や研究書など結構出ているみたいなので、少し調べてみようかと思っています。

    伊語版の重訳、楽しみにしています。

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