ブラシウスvs不可分論

三たび『中世後期の哲学・神学における原子論』より。論集の末尾を飾るのは、ジョエル・ビアールによる「原子論的推論に対峙するパルマのブラシウス」という論考。パルマのブラシウスは、基本的には不可分論者ではないようで、連続体は無限に分割可能だという立場を取る。たとえばこんな議論。線を等分に分割するという場合、不可分論(原子論)では厳密な等分が保証されない、なぜかというと、その場合、線は偶数の原子から成るのでなければならないが、それが偶数か奇数かなど、そもそも決定できないではないか……。これはあくまで数学的な話であるわけだけれど、一方で連続体が部分から構成されるという議論になると、議論の進め方に両論併記的なところがあってどこか曖昧さが残るという。また、話が自然学のほうにいたると、ミニマ・ナトゥラリアをめぐる議論など(質料は無限に分割できるにしても、形相が付与もしくは保持される上での上限・下限は必要になってくるという考え方)、不可分論的なトーンが出てこざるを得ない。このあたりは、14世紀のほかの論者たち(前にも挙げたけれど、ヴォデハムやビュリダンなど)とも共通する部分ではあるわけだけれど、ちょっと興味深いのは、線を構成する点とは別に、連続体に位置をもたない不可分なものの例として知的霊魂が挙げられていること。でもブラシウスは、自然学的観点から魂も無限に分割可能だとのスタンスなのだともいう(ヴェスコヴィーニの解釈)。このあたりもちょっと錯綜ぎみな感じで興味深いところ。