13世紀末パリのタイユ税

先日取り上げたジョングルールの社会的認知の論文では、職業や住居の史料として租税台帳が使われていた。で、租税台帳といえばやはり徴税システムそのものがとても気になるところ。というわけで、タイユ税に関するとある論考を眺めてみた。スリヴィンスキ&サスマン「中世パリにおける徴税メカニズムと経済成長」(Al Slivinski and Nathan Sussman, Taxation Mechanisms and Growth in Medieval Paris, published online, 2010)というもの。歴史経済学系の論考で、扱っているのは一三世紀末から一四世紀初頭のパリの租税台帳。当然ながらそこからいろいろなことがわかってくるらしい。タイユ税というと、王権が課した直接税としか認識していなかったのだけれど(苦笑)、一三世紀末から一四世紀初頭あたりのそれは、王権とパリ市とが一定の納税で取り決めを交わし、その負担分をパリ市側が広く納税者に分散して集めるというものだったらしい。パリ市は租税台帳すら王権側から隠していたといい、税額もパリ市と王権との間で協議され、王権側も税の評定と徴収について全面的にパリ市に任せていたという。市は低コストで税の徴収ができ、そのためタイユ税は、王権側の所有権の濫用を抑制する仕組みにもなっていた。著者たちはこの徴税の在り方を、グライフという研究者の呼称でもって「コミュニティ責任システム」(CRS:community responsibility system)と称している。このシステムは、住民たちに一種の連帯義務を負わせることにもなり、コミュニティの強化にも役立つ側面もあった。そのあたりが、エリート商人階級が市の統治を担っていた北イタリアの自由都市とは状況が異なるという。

タイユ税は基本的に土地にかかるものと個人にかかるもの(所得税のように)とがあり、貧しい者も含め広く課税対象になっていたという。貧しい層については事実上の人頭税で、より所得の大きい層には富に合わせた累進課税となっていた。著者らによれば、富裕層が貧困層を支えるという形の連帯が確立していたのだという。論考の半ば過ぎのところでは、著者たちはこの仕組みを数理モデル化してみせるが、このあたりはサラっとすっ飛ばしてしまうと(笑)、その後にまた興味深い話が待っていた。上のCRSは小規模なコミュニティが前提だが、1300年ごろにロンドンの六倍の規模にも膨れていたというパリにおいてそれが機能したわけは、タイユ税が教会の小教区ごとに徴収されていたからだという。外国人などにも課せられていて、彼らがコミュニティに受け入れられていることがわかるという。一方、ユダヤ人やロンバルディア人などは台帳から排除されており、彼らがCRSの成員とは考えられていなかった……。1290年代の各年と1313年の租税台帳と比較からは、1310年代の経済的危機によって、パリから外国人が離れていくことも見えてくるという。フィリップ四世(端麗王)によるユダヤ人とテンプル騎士団への圧迫は、次は我が身と思ったパリのイタリア人金融業者たちを震え上がらせ、そんなわけでそうした富裕層がパリを逃れる事態を招いたらしい。当時、貧富の差はもちろん大きくはあったようだが、格差は社会集団のサブグループ内部に見られる場合が多く、職業別・地域別での格差とはなっていなかったという。そもそも富裕層にしてからに、その地位は結構不安定で、世代がかわるともう全然状況が違うというほど富の流動性は大きかったという。なるほど。この論考全体として、ちょっとCRSというものが理想化されすぎていないかと感じないわけでもないけれど、一四世紀初頭前後のパリの状況に思いを馳せるための、これはちょっとした踏み台として役立つかも。