再びセクストス・エンペイリコスから

Outlines of Pyrrhonism (Loeb Classical Library)相変わらずちびちび読んでいるセクストス・エンペイリコスの『ピュロン派哲学の概要』(Outlines of Pyrrhonism (Loeb Classical Library)は、やっと第三巻の自然学系の話に入ったところ。で、振り返ってみるに、論理学の様々な議論形式を論難してみせる第二巻は、三段論法などの論証形式が、そもそもどの項も厳密な批判に耐えないとして斥けられていく様などが、ある意味爽快でもある。実際その同じ批判の仕方は、第三巻の最初のところで展開する神々の存在の論証批判、あるいは原因と結果の関係性についての批判でも活かされている。一方でセクストスの議論にもときに微妙な問題点があるような気もし、それもまたツッコミどころとして(というか、思考のある種のねじれ部分として)興味深い。たとえば、その因果関係についての批判。ある原因が認識されるためには、まずはその原因による結果が認識されなくてはなならないが、人は結果を「その原因の」結果として認識できないし、それができない以上、原因を「その結果の」原因としても認識できない。これは認識上の構造の話なのだけれど、セクストスのこの議論には、時間の関与が含まれていないために、たとえば試行錯誤を栗課した末の結果と原因の認識といったプロセスは端から問題にされることがない。

二巻の最後のほうを飾る種と類の問題も面白い。そこでは次のような議論が展開する。類というものが種に共通するものだとすると、類は種と同じ数だけあるか、あるいは一つだということになるが、同じ数だけあるとするなら、種に分かれる共通の類というものは尽きてしまうことになる(類を設定する意味がない)。類が一つだとするなら、それぞれの種はその類の一部もしくは全体を共有することになるが、全体を共有するということはそもそもありえない(同じものだけになってしまうから)。一部だけを共有するという場合、類の全体が種に付き沿うことにはならず、「人間」(種)は「動物」(類)であるとは言えず、「動物の一部」でしかないことになってしまう(実体ではあっても生命の吹き込まれていないもの、あるいは感覚をもたないもの、みたいなことになってしまう?でもそれでは類概念を取り違えている)。また、一部だけを共有するという場合、同じ部分を共有するのか別の部分を共有するのかのいずれかとなるが、同じ部分を共有するのは先の全体の共有と同じことになるのでありえない。が、違う部分を共有するとなると、種同士がまったく似ていないものになってしまう……。どうもここでの類と種の内包関係の捉え方は、なにやらパイの取り合いみたいな話になってしまっている(苦笑)。かと思うと、この類と種の議論、類が一体どのようなものとしてあるのかという話になると、なにやら唯名論っぽい話にもなってくる。種は、この種、あの種と種別できるとされるが、仮に類は「この種」も「あの種」も包摂するとなると、それらの種別の一方だけを含むわけにはいかず、しかるにそうした両方の包摂関係が矛盾を呈する場合、類そのものの存在がありえなくなってしまう……と。これなどは、三巻の「物体(の境界)はどう把握されるのか」という問題(←イマココ)とも関係しそうで、なにやらメレオロジーっぽい問題になっている。