アウグスティヌス:神の「場所」

告白 I (中公文庫)春ごろに文庫化された山田晶訳のアウグスティヌス『告白』(全三巻、中公文庫)を、ようやく通読できた。この秋はメルマガのほうでゲントのヘンリクスのスンマの冒頭を見ていこうと思っていて、ヘンリクスの見識とアウグスティヌスとの連関は顕著であることから、その準備の意味合いもあったのだけれど、そんなことはこのテキストそのものを前にするとどうでもよくなってしまう(苦笑)。それほどまでに見事な翻訳だ。もとは「世界の名著」シリーズのもの(1968年刊)。当然ながら、ずいぶん前に羅仏対訳本で読んだときよりもはるかにヴィヴィッドに、アウグスティヌスの回想にまつわる思いのほどが伝わってくる。また、様々なテーマが散りばめられていて、それらを辿り直す楽しみもある。

告白 II (中公文庫)いまさら言うまでもないことだけれど、『告白』は記憶をテーマに全体が構成されている感が強い。アウグスティヌス自身の若き日の記憶、記憶論そのもの(有名な時間論などもこの「記憶論」の部分の一端をなしている)、そして創世記という「記憶」をめぐる注釈……。野暮を承知で、たとえばその「記憶論」に注目してみるならば、そこにはいくつもの面白い議論が見いだせる。たとえば、記憶したことそのものの記憶(記憶の二重性だ)に着目している点などがそうだ(10巻13章)。そのすぐ後(10巻14章)では、記憶に含まれる感情とそれを想起する自分の感情との齟齬について触れ、面白い比喩を用いている。「記憶は心の胃のようなものであり、よろこびやかなしみはいわば甘い食物と苦い食物のようなもの」だというのだ。想起は食物が胃から反芻によってとりだされるようなものだとも語っている。さらにはまた、記憶は野原だったり洞窟だったり岩窟だったりするとも語られている(10巻17章)。この場所との結びつきは、しかしながら神の想起という問題において超克されなくてはならないものとなる。失われたものが見出されるのは記憶に保持しているからにほかならないと言い、これが「至福」の場合にまで敷衍され、それはすなわち神の座が記憶のうちにあるがゆえに見出されるのだと説く。告白 III (中公文庫)では神は「記憶のいずこに」あるというのか。物体的な事物の心象のうちにではない、自分の心が占めている心そのものの座所でもない、けっして場所にはない(10巻24〜26章)……まるで否定神学であるかのように、それはあらゆるトポスを欠いている、トポスを超越している……。この点について訳者はこう注釈を付している。神と出会う「場所」は記憶の中にはなく、「神に関する根源的な知は記憶をこえた神において得られるものでなければならない。(……)人間の精神はそのもっとも奥深いところにおいて、超越者である神に向かって開かれている」(II、p.259)。