自由意志論−−古代と近世での断絶?

意志と自由―一つの系譜学 アウグスティヌス‐モリナ&スアレス‐デカルトまたまた中間報告だけれど、大西克智『意志と自由―一つの系譜学 アウグスティヌス‐モリナ&スアレス‐デカルト』(知泉書館、2014)を読み始めた。まだ全体の三分の一、アウグスティヌスを扱った第一章から第二章冒頭にかけての箇所まで。全体としては「自由意志論の思想史」といった内容で、自由意志論に大きく外挿的思考と内在的思考との二つの流れを見出し、それらを思想史的な議論を踏まえつつ考察するというもののようで、すでにしてとても面白い。序章の見取り図によれば、前者は自由意志の在りようを外部からの非決定に委ねて考察するという立場のようで、代表的なものとして近世のイエズス会系(同書ではジェズイットと表記される)の自由意志論がそれにあたるとされる。後者はそうした外部によるのではない、意志そのものが内的に自律し自由に判断できるという議論を言うようで、近世ではデカルトがその代表格とされている。また、これらに被さるかのように、意志について個人がもつ実感と、そこから離れた(哲学的)概念形成という対立軸も浮かび上がり、実感寄りがジェズイット、実感との乖離論がデカルトと重ね合わされている。この対立軸は(同書が目標とする)哲学史研究と哲学的営為そのものとの接合を果たす上で重要な軸線にもなっていくようだ。

こうしていよいよ本論へ。第一章では、上の内在的思考の流れを遡及するという観点からアウグスティヌスが中心に論じられる。アウグスティヌスにあっては、意志の自由は、たとえば善悪のいずれかを選ぶといった形では提起されない。悪は「欠損」ないしは無であると解釈されるので、悪を選ぶという選択肢がそもそも想定されていない。善をなす限りにおいて人間の意志は自由なのだとされるわけだ。けれども実際に人は悪をなしうる。その原因はどこにあるのか、意志のどこに悪が内包されているというのか……。これはアポリアだ。アウグスティヌスはこうして、有と無の中間体のような「冥さ」(と同書は称している)へと沈み込むのだというが、それはとりもなおさず、自由意志の自律性と神による先知との板挟みということでもある。アウグスティヌスはそこで一種の反転を見せ、意志と神的先知のいずれをもそっくりそのまま肯定するしかないとする(らしい)。純然たる肯定へ?それは、ストア派による運命と意志との肯定(あらゆるものに原因を見る決定論的なスタンスであるがゆえに、運命による決定と意志とに本質的な齟齬が生じることはないというスタンス)よりも高い強度と緊張を伴っている、とされる。対照的に、後のジェズイット(モリナに代表されている)、あるいはパスカルなどは、決定を被らない(非・被決定)ということを自由の説明原理として立てるが、それでもなお悪の原因が定まらないという事態を招く(非決定の自由の中でなぜ悪を選んだのかが問われないというわけだ)。ではデカルトはどうなのか……というところで近世を本格的に扱う次章以降へと話が進んでいくわけなのだけれど、それにしてもこのあたりのアウグスティヌス解釈、あるいはストア派についての解釈については、個人的にどこか違和感を覚える。その違和感の正体というか、それが具体的にどこの何の部分への違和感なのかは、すぐには答えられない感じだ(苦笑)。うーむ、なんとも歯がゆいのだけれど、要はそうした記述をこちらなりに検証し消化せよということか……。このあたりはまた、追って報告したい。また、それとは別に、非決定による自由論が確立されるには一六世紀のジェズイットを待たなくてはならない、といったあたりも実のところどうなのか、なんて疑問もあったりする。それは第二章以降……ということなのかしら?なるほど、第二章の冒頭部分では、先駆者としてロジャー・ベーコンやブルージュのヴァルターへの言及があるし、もう少し先でドゥンス・スコトゥスへのモリナの評価なども取り上げられているようだ。けれどもそれらの自由意志論は、置かれている力点が異なっていて、非・被決定性の徹底にはいたらない、として一蹴される運命にあるようなのだが……。