ビュリダンの認識論を復習する

学知論・認識論がらみで、久々にビュリダンについての論考を読んでみた。クリストフ・グルヤール「誤信はいかにして可能か:ジャン・ビュリダン、初老女性、および誤謬の心理学」(Christophe Grellard, How Is it Possible to Believe Falsely? John Buridan, the Vetula, and the Psychology of Error, Uncertain Knowledge: Scepticism, Relativism and Doubt in the Middle Ages, ed. D. G. Denery and al, Brepols, 2014)というもの。収録されている論集そのものも面白そうだが、とりあえずオンライン公開されているこの一論考を見てみた。ビュリダンの学知論・認識論において、とりわけ誤謬がどう生じるかについての議論を取り上げてまとめているもの。ビュリダンの場合、認識論の基本的な図式はオッカムなどが示すものとそれほど違う印象は受けないのだけれど、同論考によれば、とりわけ重視されるのが、感覚器官を通じて心的に処理される対象の像を知性が「それと認める」プロセス。いわば概念的な「判断」(悟性的な)の介在だ。オッカムよりもその判断プロセスが強調される点にビュリダンの特徴が表れているということらしい。で、これは最初の意志の介在プロセスでもあり、ここに誤りの可能性も生じてくるとされる。たとえば教育、習慣(ハビトゥス)などの影響で、学知の受け入れ拒否が生じたりする、という具合だ。論考では、ビュリダンが「初老の女性」を例にそうした誤信について説明している文章を取り上げている。初老の女性が例とされるのは、ビュリダンの説教などの実践から、信じ込みやすい人々として性格づけられているからのようだ(もちろん、中世に特有の蔑視がなかったわけでもないだろうけれど)。そこからビュリダンは推測する。認識機能自体が自然にもつ「真理へと向かう性向」が、獲得された習慣(反復によって固着する)によっていかにして疎外されるか、あるいは意志によっていかにして非・自然的な形で妨げられるかが、そうした事例をもとに説明できるのだ、と。同論考で見る限り、ビュリダンはある意味、民族学・人類学を先取りするかのようでさえある。で、そうした人々が陥る誤信を、合理的説明にもとづいて払拭するのが学問に携わる者の職務の一つであると位置づけていたのだという。なるほど、そのあたりの使命感(?)も、あるいは説教の経験が大きくものを言っているのかもしれない。