人は敵を愛せるか

キリスト教の伝統的な教えとして広く流布しているものの一つに、「汝の敵を愛せ」というのがある。けれどもこれはそう簡単なことではないように見える。これについて、トマス・アクィナスの応答を紹介した論考を見かけたので、取り上げておくことにしよう。ベレク・キナ・スミス「敵は友になりうるか?トマス的回答」(Berek Qinah Simith, Can an Enemy be a Friend? A Thomastic Reply, Patristics, Medieval, and Renaissance Conference, Villanova University, October 25, 2014)。これによると、A.C.グレイリングという英国の哲学者が近年の著作でその問題を扱っていて、敵を愛するという命題が結局は詭弁にしかならないことを示してみせたのだという。これを受ける形で、同論考はペトルス・ロンバルドゥスとトマス・アクィナスの応答を取り上げて再考している。ロンバルドゥスの議論は、人間が人間であるところの本性と、悪しきものとなる悪意(罪)との区別をもとに、「罪を憎んで人を憎まず」という議論に始終しているらしい。だがこれでは、いずれにしても同じ相手が愛と憎しみを被ることになってしまい、あまり実践的ではない。で、トマスの場合はそれにとどまらず、第三項を立てる形での議論を進めるのだという(『慈善について』が重要なテキストのようだ)。つまり愛の「形相的対象」としての神そのものだ。人はみずからに害をなす敵を(あるいは単に隣人でもいいが)直接愛することはできないが、神への愛をもって間接的に相手を「愛しうるもの」と見なすことは可能であり、さらには、相手をそのようなものと見なさないことは罪深さへの共犯関係に陥ることになるのだ、とトマスは説く。またさらに、敵を愛するとは、相手のために祈るとか、事故などの緊急時に敵であろうとケアを施すといった、一般的な愛での意味であり、敵対する他者に個別に愛を示す必要はなく(それはそもそも人間には不可能とされる)、安寧さや慈善の継続を阻む障害が取り除かれさえすればそれでよい、とも述べているという。この観点は、敵対する者との問題を協議によって解決するための第一歩にもなりうるというわけだ。なんとも実践的な観点だ。論考によれば、この実利的な議論こそがトマスの特徴をなしており、ペトルス・ロンバルドゥスにはないものなのだという。

上のグレイリングは、このトマスの議論についても、すべてを神に結びつけて考えている点を論理上の難点としているらしいのだけれど、同論考の著者は、グレイリングはトマスにとっての(あるいは当時における)神というものが、単に愛の対象という抽象的なものではなく、創造主としての重みを伴ったものだという点を忘れているようだ、と述べている。神は、いったん人の複合的な感情をあずかって中和し導けるだけの象徴的な重み、「実在感」のようなものをもっていた、というわけだろうか。それが失われている無神論的世界にあっては、やはりそうした敵を愛するようなことは不可能でしかないのか。けれどもこの神(または第三項)を介しての敵もしくは隣人への愛という図式は、無神論的な議論にすら適応可能な、別種の一般化ができないものだろうか(宗教哲学的に?)、とつい考えたくなる。その場合のキーはやはり、いったんその憎しみの念をあずけ、代わりに慈悲の念を差し出すような第三項にありそうだ。では神以外にどのような第三項が立てられうるだろうか?